「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。/ 何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。/ 神を待ち望め。
/ わたしはなおわが助け、/ わが神なる主をほめたたえるであろう。」 (11節、口語訳)
教会は、今、クリスマスを迎える準備の期間「アドベント」の時を過ごしています。クリスマスを本当の喜びとし
て迎えるには、何が必要でしょうか。詩編42編に聞いて参りましょう。詩人は今、魂が「うなだれ」、うなじを曲げ、
首を低く垂れて嘆き悲しんでいます。また「思いみだれ」ています。「思いみだれる」という言葉には二つの意味が
あります。一つは、獣がさ迷い、野犬が町を荒し回って吠え猛る姿です。詩人の魂は手に負えない殺伐とした気持ち
になっています。今一つは、心の不安と動揺を表わしています。聖書の他の所では、「激しく鼓動する」と訳され、
また海の鳴りどよめきをも表わしています。このように詩人の魂は乱れて動揺し 呻いて、神に訴える意欲すらなく、
「わがうちに」と、自分の魂との対話の中で 自問自答し 苦闘しています。
これはまさに現代人の姿ではないでしょうか。その魂が命の源に向かうことなく意欲と生きがいを失い、何の望みも
ない状態です。そこで詩人は、そんな自分の魂を叱りつけて 「何ゆえうなだれるのか。何ゆえ…思いみだれるのか」
(11節)と。繰り返し、絶えず、虚無の深い淵に引きずり込まれて行く自分と激しく戦っています。そしてこの苦闘は
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、/ わが魂もあなたを慕いあえぐ。」(1節) と、活ける神への魂の渇きに変わり
ます。鹿がやっと川を見つけますが、そこには水がない。鹿の動揺し、水を求めて、激しく、切羽詰まった切実さ、そ
の様な魂の渇きをもって詩人は神を慕い求めています。「よこしまな人から / わたしを助け出してください」(詩43:1)
と、神への直接の祈りの言葉を口にし、神の「光とまこと」(詩43:3)を受けようとする信仰へと変えられて行きました。
するとそこに「神を待ち望め」(11節)と言う声が心に響いてきました。「待ち望む」とは、何かをまだかまだかと待つこ
とではありません。待ち望むとは、現実と全く異なる世界の到来を確信することであります。心に割り切れない思いを
山積みし、心の晴れない暗い現実にうなだれるしかない、呻くしかない、そんな現実に反して、敢えて神の救いの出来
事に信頼していく態度、それが神を待ち望むことです。そこにこそ、現実の暗さと重荷を乗り越えていく道があり、真
のクリスマスを迎える喜びがあります。闇から光への道は、主イエス・キリストの御降誕にあります。