「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」(10節 口語訳)
教師 武田 晨一
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2020年8月
信仰の英雄ダビデが、自分の配下である兵士ウリヤの妻を寝取り、子供を宿し、そのあげく、夫を死に追いやります。この詩編51編は、
ダビデがその罪に目覚めて悔改めた出来事を念頭に置いて記された捕囚期のものです。捕囚期の人々は、その心が粉々になり、支離
滅裂で、つぶれて打ちひしがれ、踏みにじられていました。神殿は焼け落ち、国は滅び、体制は崩壊して全てを失い、虚無に陥っていた
のです。これはとりもなおさず2020年の世界の歴史に生きる私たちの姿です。昔に比べて、物質的には恵まれた時代ですが、物やお金
の空しさを知った今、多くの人々はその心の行く先を見失っています。こうした定まらない大人社会の価値観が、子供たちの世界に反映し、
いじめと言う卑劣で、陰湿な行動、スマホによる誹謗中傷などにも現れて来ています。
さて、この破滅と荒廃の中に生きる人間の、その根底にあるものは何でしょうか。詩人はその深みにある現実、その奥深くにある人間の
本性を見ています。それは「わたし(自身)の罪」(3節)です。徹底して自分の中にある罪の姿を認めています。「わたしの母は罪のうちにわたし
をみごもり」(7節)とは、決して母親を卑しめているのでなく、骨の髄にまで罪のDNAが私に浸透していることを強調しています。「わたしのとが、
わたしの罪、わたしの不義」(1,2,3,5,8節)と、「わたしの」と言うことが何回も語られ、自分の個人的罪とその責任が回避されていません。人類
共通の弱さである罪を、率直に自分の中に認めています。5節を直訳しますと「私の諸々の不義、私自身よく知っている。私の前に、何時まで
も」となります。
罪を自分のものとして認めることによって、人は初めて神に救いを求めて声を上げます。その時「砕けた悔いた心をかろしめません」(17節)
と言われる、神による霊的な新しい創造が始まります。ここで言う清い心を「つくり」と言う言葉は、聖書の中では、天地創造と捕囚からの解放に
しか使われていません。神自らが働き、活動される時以外には用いられていません。詩人が祈り求めている事は、AIやテクノロジー等の人間
の経験や力に基づく打開策ではなく、神の創造と言う上なる力です。精神的に荒廃した人間の奥底に、死に至るどうしようもない病を見、その罪
の中から叫びをあげる時、それに応えて、霊的な神の創造が始まります。人間が本当に新しくされる道、命に至る道はこれ以外にありません。
内部から、私の内側から、「雪よりも白く」(7節) 清められないと、人は到底救われることはないのです。
神の御子 イエス・キリストが、世に降られたのは、その為であったのです。