「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、
あなたがたの肉に、石の心を除いて、肉の心を与える。」(26-27節・口語訳)
イスラエルの民がバビロンの捕囚となって50年、彼らは祖国を思い、神の都エルサレムを慕って「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを
思い出して涙を流した。」(詩137:1)と歌います。しかし今、預言者エゼキエルは、その捕囚からの解放を告げます。自由の民となって祖国に復帰すると。
ですが それは 無条件に歴史の歯車を元に戻すと言うことではありません。祖国に帰るには「汚れを清め」ることが必要だと言います。
では「汚れ」とは何でしょうか。それは無秩序な状態のことを言います。では 無秩序とはどこから来るのでしょうか。それは神以外のものを神のように崇め、
その奴隷となるところから来ます。ですから「汚れ」を「偶像」とも言い換えられています。
今、私たちは何を一番大事に思い、何を一番 価値あるものとし、何を最終的な拠り所として生きているでしょうか。お金か、自尊心か、過去の栄光か、
社会的地位か、実はそのことが無秩序を招く「汚れ」であり、人間はその汚れの只中で、耐え難き混乱と破壊を体験し、殺伐とした恐ろしい現実に直面する
のであります。その時に初めて、人は我に返ります。ですが、私たちは弱くどこまでも不完全なために、どんなに努力して頑張ってみてもどうにもなりません。
こうして、神から離れた人間の現実に完全に打ちのめされ、打ち砕かれた者、つまり 捕囚を経験した者となります。その時、神はこのような者に「清い水」を
注いで下さいます。清い水は、汚れた状態を断ち切り、過去の無秩序な、堕落した生活を放棄させます。神が清い水で洗って下さると言うのは、神が、そう
した汚れた状態をことごとく洗い清めて下さると言うことであります。清めるとは、キリストが十字架上に私たちの汚れを全て負って罪を贖い赦して下さった
ことです。この十字架の無限の愛と赦しを知る者に、神は「新しい心」を授けて下さいます。それは頑なな心ではなく、神の赦しの恵みを感じ取ることの出来
る柔らかい心です。神は、その様な人の心に、「新しい霊」を置いて、その人の中に神の栄光に輝く、新しい業を起されるのであります。 新型コロナウィルス
の艱難の中にも、神のみ旨を追い求めて、「新しい霊」の与えられる者であることを祈りましょう。