「わたしはあなたたちを愛してきたと / 主は言われる。/ しかし、あなたたちは言う /
どのように愛を示してくださったのか、と。/ ……わたしの祭壇に /
汚れたパンをささげておきながら / ……戸を閉じる者はいないのか。」(2. 7. 10 節)
イスラエルの民がバビロンの捕囚から解放されて祖国に帰還した時、そこに見たのは荒廃したエルサレムの都と
神殿でした。人々は預言者ハガイとゼカリヤによってイスラエルの復興を夢見、先ず神殿の再建に取り組み、遂に
第二神殿の完成を見ます。それから十数年、期待したイスラエルの繁栄は実現しません。そこで民らは「神に仕える
ことはむなしい」と不満を募らせ、極めて功利的・実利的な考えに支配されて行きました。
預言者マラキはこうした人々に対して「神に立ち帰れ」と、悔改めを迫り、イスラエルの救いは、只、一方的な神の
愛による選びにあることを、族長時代の双子の兄弟ヤコブとエサウの物語によって示します。「わたしはヤコブを愛し /
エサウを憎んだ」と、人間の常識で見れば大変な差別です。しかし、全てを創造し、全てをご支配し給うのは神なの
です。人間の考えは目に見えるものに支配されて、ごく狭いものです。神は人間の思いを遙かに越えた仕方で、ご自身
の計画を実現されます。神は、人間の考えでは究めることのできない深い御心のもとに、救いの歴史を成就されるの
です。これがヤコブを愛しエサウを憎んだ、驚くべき神の救いの御計画です。
しかし、人間は自分の知恵でもって物事を判断し、自分の思いを実現しようとして、エサウの子孫エドムが「我々は
打ちのめされたが / 廃墟を建て直す」と主張します。しかし神は 「たとえ、彼らが建て直しても / わたしはそれを破壊
する、と」、神は自らの主権を明らかにされます。そこには、全てに先立つ恵みの選びがあります。神の恵みの選びに
よって、何のとりえもない小さい民族のイスラエルが神の民として選ばれたのです。預言者は、父と子、主人と僕の
比喩を用いて恐れと慎みのない祭司の姿を指摘します。祭司は神を畏れるよりも人の思いを重視し、当時飢餓のために
貧しい生活を強いられている人々に、祭司は人々の好意と人気を得るために傷のある羊を祭壇に献げたと言われます。
そのようなことは律法で固く戒められています。総督に税金の代わりとして傷のある動物をもって行っても受け入れら
れないでしょう。それなのに、神に対しては、貧しさを言い訳に軽んじる、そういう神礼拝なら止めた方がよいと主は
言われます。神の愛に対する感謝と讃美、純粋な献身の献げもの、そのような真の礼拝を、神は受け入れてください
ます。