「わたしは羊の門である。…わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を
見つける。…わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 (7,9,10節)
主イエスはご自分のことを「わたしは羊の門である」と、繰り返し念を押すように語られました。これは厳密に
訳しますと「羊のための門」となります。檻の門でなく羊のための門です。この門を通らなければ羊は檻に入るこ
とも、そこから出て命の糧である牧草にありつくこともできません。言うまでもなく羊とは、私たち人間のことを
譬えています。
主イエスは山上の説教で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る
者が多い。しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない。」と言っています。
命に至る門は狭いのです。ですからその門を通ろうとする者は、自分を小さくし、身を低くしないと入れないのです。
自分の心に湧き起こる様々な思い、欲望や自己主張、思想的主義主張、そうしたもので自分が大きく膨れ上がってい
てはとても入れません。
主イエスが「わたしを通って」と強調している門は、キリストの十字架です。キリストの十字架は、この世で最も
低い所、侮られて人に捨てられ、罪人として死んで下さった所です。この門を通らないでこの世を生きる人は、盗人
であり、強盗だと言います。しかし、このキリストの門を通って生きる人は、暗い夜でも、外敵のいる中でも救いの
壁に囲まれて悪魔の誘いから守られます。また、檻の中で安全に過すだけでなく,門を出て、教会の外の 世の力と戦
う時も、羊飼いに導かれ、恐れることなく伸び伸びと自由に戦って、勝利することが出来ます。何故なら、私たちの
ために命を捨てて下さる良き羊飼い イエス・キリストが共にいて下さるからです。そればかりか私たちを豊かな牧場
に導き、魂の糧である命の言葉によって養ってくださいます。
けれども、私たち人間は、この真の羊飼いを知らず、何の拠り所も持たないで、自分の思いのままに歩いています。
そして体だけでなく魂まで滅んでいくのです。
主イエスは迷い出た一匹の羊を探し求めて、その滅びの道から救い出して私たちに永遠の命を与えるために、十字架
上で私たちの滅びを負って死なれ、命の門となって復活されました。もっともっと自分を小さく、低くして、この狭き
十字架の門を通り、救いに与かる、実り多き第一歩を踏み出しましょう。