「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、
わたしは貴方がたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。」 (4-5節 口語訳)
預言者エゼキエルは幻を見ました。幻は、将来に起こる出来事を象徴的に表します。当時、イスラエルの人々は祖国を失ってバビロン
に幽閉されていました。その捕囚の地で民族の復興と信仰の回復の幻を見たのです。
現代は明日への確かなヴィジョンが描けない時代だと言われます。しかし、人間が喜んで 意欲をもって生きて行くためには、明日
への幻が必要です。明日への幻に生きる人の顔は、明るく輝いています。
預言者エゼキエルは、聖霊に満たされて幻を見ました。そこには人間の思いを越えた世界が展開されていました。先ず、幻の中で彼が
見たものは、人が死んで長い年月を経た、無数の枯れた骨でした。「これらの骨はイスラエルの全家である。『……骨は枯れ、われわれの
望みは尽き、われわれは耐え果てる』」(11節) と言っています。これは全く望みの断たれた状態です。しかし、ここで私たちが知らなければ
ならないことは、命に至る道は、このような絶望を味わうことから始まると言うことです。そこで神は「これらの骨は、生き返ることができるか」
(3節) と問われました。エゼキエルは、ただ「主なる神よ、あなたはご存知です。」(3節)と言ってすべてを主に委ねました。
すると神は「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」(4節)と言います。人生の荒波に呑み込まれ、人間関係の狭間でモミクチャになることがあって
も、決して驚いてはいけません。その時こそ、絶望しかない、屍の枯れた骨のようになっている その時こそ 真剣に神に信頼を置いて その
言葉に聞く時なのです。するとどうでしょう、枯れた骨が集まり、組み合わされ、皮が付き、肉が付いて元の人間の姿になりました。しかし
まだ命がありませんでした。そこで 次に聖霊を乞い求めて祈りました。神の息、即ち神の霊が吹き込まれます。すると これらの人々は生
き返って起き上がり、自分の足で立ち、踊り出して「大いなる群衆」(10節)となり、新しい命に生きる民とされました。私たちも 明日への希望
が見えず、絶望の中に置かれる時にも、主から霊を吹き込まれて生き返り、主なる神の言葉に聞き従い、主の民として活き活きと歩んで
行くことができるよう祈りましょう。