「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のある
うちに歩きなさい。」
主イエスがエルサレムに入られ、十字架の時が迫っていた。その時、主は、「今、わたしは心騒ぐ」(27)と言われた。御自分の
死の時が迫っている現実を前にして、逡巡しておられるのであろうか。――そうではない。主イエスの死は、単に御自分が命を失う
ことではなく、神の御心に反する人々の罪の結果であり、その罪の重さが主を苦しめているのである。本来、私たちが受けるべき
苦しみを、代わって受けておられるのである。
続けて主は、「しかし、わたしは正にこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください」(27後半〜28前半)と
祈られる。それは、御自身が命を献げることによって、神の御名の栄光を現わすことを表明なさっているのであり、神はそれに応え
て、「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現そう」(28節後半)と応じておられる。
これを聞いた群衆は、「雷が鳴った」とか「天使がこの人に話しかけたのだ」(29)と言ったが、主イエスは、「この声が聞こえた
のは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」(30)と言われた。今、主イエスに起ころうとしていることは、私たちのためなの
であった。
更に主イエスは、「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての
人を自分のもとへ引き寄せよう」(31、32)と言われた。これは33節にあるように、御自身の死について述べられたのである。
これに対して群衆が、「律法」(=旧約聖書)において、メシアは永遠の存在であると聞かされているのに、天に上げられなければ
ならないとはおかしいのではないかと矛盾を指摘すると、主イエスは標記のように、「光」のことを語られた。ここで「光」とは、
主イエス御自身のことで、光である主が、罪と悪が支配する暗闇のこの世から、私たちを引き寄せてくださり、光のもとで生きること
が出来るようにしてくださったのだ。
最後に、「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と
言われた(35後半〜36)。これは、主イエスに対する天からの声であると共に、30節にあるように、今の私たちに向けての天の声で
ある。主イエスの十字架にこそ、栄光があらわされている。この光が、私たちのうちに照らされている今のうちに、光である主を信じ
なければならない、ということである。