「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに
足を洗い合わなければならない。


ヨハネによる福音書1314
応援教師 山本 清   
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2023年10月

 聖書の時代には、道路は舗装されておらず、サンダル状のものを履いていたので、外出から戻ると足を洗わねばならなかった。

その足を洗うという作業は、家の使用人のすることであった。ところが、主イエスが弟子たちの足を洗おうとされたので、弟子の

ペトロが驚いて、「主よ、あなたが足を洗ってくださるのですか」(6)と言うと、主イエスは、「わたしのしていることは、今は分

かるまいが、後で、分かるようになる」(7)と言われ、更に、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかか

わりもないことになる」(8)とまでおっしゃった。主イエスが弟子たちの足を洗うことで示そうとされたことは、全ての人には罪の汚

れがあり、主イエスは、その汚れを洗い落とし、天国に入れるようにするために十字架にお架かりになる、ということである。

 さて、主イエスの弟子たちの足を洗ってしまうと、標記のように言われた。ここで、「足を洗う」ということが、互いに十字架を

負い合うことを表わしているとすれば、それは、恥を負い合い、苦しみを負うことであり、相手の罪を赦すということであって、大

変厳しい要求であって、そんなことは<とても出来ない>と思ってしまう。

 しかし、主イエスは、私たちの恥を負ってくださり、私たちの罪の結果として負うべき苦しみ・痛みを十字架の上で負ってくださ

ったのである。主イエスは、泥まみれになって、私たちの足を洗ってくださったのである。

 主イエスは、このあと、「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」(16)と言われた。「遣わした者」と

は主イエスのことであり、「遣わされた者」とは私たちのことである。私たちが、主イエスと同じような十字架を負えと言っておられ

るのではないのだ。続けて、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(17)と言われた。私たちが負うことので

きる十字架は、主イエスの十字架の何万分の一にも満たないが、私たちなりに、互いに足を洗い合うならば、主は、「幸いである」と

言ってくださるのである。なぜなら、主イエスが共にいて、私たちが洗い足りない分も、洗ってくださるからである。
 最後に、主は

「わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と。十字架の主を受け入れ、信じる者は、まことの

神を、キリストにおいて見出し、信じる者とされるのである。                  (10月1日 主日礼拝説教より)



                                                            

ホーム

泉北伝道所紹介

月報巻頭言

聖書の言葉

初めての方へ

アルバム

地図

月報巻頭言集
 2013- 2019年

 2023年  1月 
   2023年  2月 
 2023年  3月 
 2023年  4月
   2023年  5月 
 2023年  6月
   2023年  7月 
   2023年  8月 
 2023年  9月 
 2023年10月 
   2023年11月
 2023年12月
      互いに足を洗い合え 」