「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに
足を洗い合わなければならない。」
聖書の時代には、道路は舗装されておらず、サンダル状のものを履いていたので、外出から戻ると足を洗わねばならなかった。
その足を洗うという作業は、家の使用人のすることであった。ところが、主イエスが弟子たちの足を洗おうとされたので、弟子の
ペトロが驚いて、「主よ、あなたが足を洗ってくださるのですか」(6)と言うと、主イエスは、「わたしのしていることは、今は分
かるまいが、後で、分かるようになる」(7)と言われ、更に、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかか
わりもないことになる」(8)とまでおっしゃった。主イエスが弟子たちの足を洗うことで示そうとされたことは、全ての人には罪の汚
れがあり、主イエスは、その汚れを洗い落とし、天国に入れるようにするために十字架にお架かりになる、ということである。
さて、主イエスの弟子たちの足を洗ってしまうと、標記のように言われた。ここで、「足を洗う」ということが、互いに十字架を
負い合うことを表わしているとすれば、それは、恥を負い合い、苦しみを負うことであり、相手の罪を赦すということであって、大
変厳しい要求であって、そんなことは<とても出来ない>と思ってしまう。
しかし、主イエスは、私たちの恥を負ってくださり、私たちの罪の結果として負うべき苦しみ・痛みを十字架の上で負ってくださ
ったのである。主イエスは、泥まみれになって、私たちの足を洗ってくださったのである。
主イエスは、このあと、「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」(16)と言われた。「遣わした者」と
は主イエスのことであり、「遣わされた者」とは私たちのことである。私たちが、主イエスと同じような十字架を負えと言っておられ
るのではないのだ。続けて、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(17)と言われた。私たちが負うことので
きる十字架は、主イエスの十字架の何万分の一にも満たないが、私たちなりに、互いに足を洗い合うならば、主は、「幸いである」と
言ってくださるのである。なぜなら、主イエスが共にいて、私たちが洗い足りない分も、洗ってくださるからである。 最後に、主は
「わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と。十字架の主を受け入れ、信じる者は、まことの
神を、キリストにおいて見出し、信じる者とされるのである。 (10月1日 主日礼拝説教より)