わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
ヨハネによる福音書7:1-9より7:6
年が改まって新年を迎えると、何か新しい気持ちになるが、罪深い私たちの本質が新しくされるわけではない。どうすれば、新しくなるのか。
主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人たちを満腹させられたことで、人々の期待が膨らむ中で、ユダヤの指導者たちは反発したが、主の
身内の兄弟たちは、田舎のガリラヤ地方に留まっていないで、都のエルサレムがあるユダヤ地方に行って、すばらしい業を人々に見せてやるように、
主イエスに勧めた。これはサタンの誘惑である。かつて主イエスが伝道を始められた時に、荒れ野でサタンから三つの誘惑を受けられたが、それらを
退けられた。私たちも、伝道において、同じような誘惑に向き合わされる。
だが主イエスは、御兄弟たちの勧めに対して、標記のように語られた。それは、身内の方が考えたように、人々が集まる祭が効果的だという考えでは
なく、また、今、エルサレムに行くことは危険だから避けた方がよいという意味でもない。主は、「あなたがたの時はいつも備えられている」(6節)
と言われた。それは、私たち人間が好都合だと考える時ではなく、神がお定めになる時がある、ということである。
続いて主は、「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっている業は悪いと証ししているからだ」(7節)
とおっしゃった。これは、人々の期待に応えることが大切なのではなくて、世の人々が行なっている罪を暴き、その問題を解決することこそ大切なご自分
の役割だということである。
最後に主イエスは、「あなたがたは祭に上って行くがよい。わたしはこの祭には上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」(8節)
と言われた。これは、半年後にやってくる過越し祭の時こそ、御自身が人々の罪のために十字架に架かって、贖いの御業を行なわれるのが相応しい
「わたしの時」である、という意味である。
次の10節を先読みすると、<しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた>とある。
これは先のお言葉とは矛盾しているが、心変わりをされたのではない。主イエスは、御兄弟が期待し、勧めたような意味では、仮庵祭には行かないが、
人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。それは決定的な「わたしの時」=十字架の時に向けての、エルサレム行きとなる。
私たちは主イエスに対して勝手な期待を寄せてしまう。私たちがなすべきことは、主の愛と苦しみを知り、罪を悔いて、一切を主に委ねることである。
それが、私たちにとって、生涯における最高の「わたしの時」となるのではないか。(1月1日説教より)