「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の
人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その
人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「この
ようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。」
人が生きて行く中で、心や身体の不調によって、また、世の中の景気の動向や戦乱の勃発によって、将来に向けての不安が広
がることがある。そうした中で、キリスト教は「ほんとうの癒し」を与えてくれるのであろうか。ある日、イエスのところへ、四人
の男が中風の人を運んで来たが、群衆に阻まれて、イエスに近づくことが出来なかったので、彼らは、イエスがおられる家の屋上に
上って、屋根に穴をあけて、病人の床を吊り降ろした。するとイエスは、彼らの信仰を見て、中風の人に、「あなたの罪は赦され
る」(5節)と言われた。
ところが、イエスに批判的だった律法学者たちは、心の中で、罪を赦すことができるのは神だけだと考え、「神を冒涜している」と
思った。確かに、罪を赦すことが出来るのは神だけであり、人間が罪を赦すことが出来ると考えるのは、神を冒涜することになる。
また、「罪は赦される」などと口先で言うのは易しいが、中風の人が実際に癒されなければ何もならない、と考えた。これは、もっと
もな考えである。すると、イエスが標記のように言われると、中風の人は起き上がって、床を担いで歩き始めたのである。
この世には、病気という不幸があり、戦争という悲劇があるのは、人間が神の御心に従わない「罪」に根本的な原因がある。この
問題は、人間の善意や努力だけでは解決できない。そういう意味で、律法学者たちの批判は当たっている。しかし、「人の子」であり
つつ、「神の子」である主イエスは、自らは罪がないのに、人々の罪と病の苦しみを代わって担い、十字架にお架かりになるお方で
あり、私たちを不安や不信仰の罪から解放してくださるお方なのである。
私たちの周りには、まだ、病や様々の困難や苦しみがあり、ウクライナやガザで起こっていることは、簡単には解決しないことの
ように見えます。しかし、主イエスは私たちに、「わたしが一緒にいる。だから、罪は赦される。起き上がりなさい」と言われます。
この主イエスの言葉を信頼して、主に従う者とされたい。そこに、「ほんとうの癒し」があり、世界平和への道も開けて来るのであり
ます。 (10月29日 伝道礼拝説教より)