「私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
ヨハネによる福音書7:38より
イスラエルの三大祭の一つ仮庵祭は、元来は農耕祭で、収穫を感謝する祭りであり、その祭りの終わりの第8日目には、雄牛、雄羊
などがほふられ、祭リはクライマックスに達する。この祭の間には毎日、シロアムの池から水を汲んできて、神殿の祭壇にこれを注ぐ
儀式が行われた。水が少ないパレスチナ地方では、水は貴重なものとして尊ばれ、水があることは祝福の象徴でもあった。そうした背
景の中で、主イエスは大声で、「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい」(37節)と語り始められた。「渇いてい
る人」とは、ユダヤ社会の中で罪人とされていた徴税人や遊女が考えられるが、主イエスはそうした人だけでなく、他人を見下げたり、
神との関係が希薄になっていて、霊的に渇いており、罪の赦しを必要とする人のことを言っておられるのであろう。
私たちは、「渇いている人」というと、経済的に恵まれない人々、競争社会の中で落ちこぼれた人々、家庭的に恵まれない孤独な人々、
健康的に弱さを抱えている人などを思い浮かべる。主は、確かに、そうした人にも呼びかけておられるが、他人を見下げたり、羨んだり、
差別したり、憎んだりする私たちにも呼びかけておられるのではないか。
イエスはそのような人たちに向かって、「神殿に行って礼拝しなさい」とは言われずに、「渇いている人は誰でも、わたしのところに
来て飲みなさい」(37節)と言われた。
主は、当時の神殿の礼拝が限界を持っていると見ておられ(2:13以下の宮潔めの業)、自らの十字架と三日目の復活の御業によって、
新しい神殿(=教会)が建て直されることを宣言されていた。そして、標記の通り、主イエスを信じる者の内からは、「生きた水が川と
なって流れ出るようになる」のである。「聖書に書いてある通り」とは、詩編114:8、イザヤ書44:3,4、エゼキエル書47:9、ゼカリヤ
書14:6~9を指すとみられるが、それらの預言は全て、イエス・キリストの十字架によって成就することになるのである。 ところで、主は、
「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」と言われる。もちろん、その水の源は主イエス御自身にあるが、キリストの体である
教会の群れの一人ひとりからも出ると言われたのである。では、「生きた水」とは何か。それは、ヨハネ福音書4章に登場したサマリアの
女に向かって述べられたように、主イエスからわき出る「永遠の命に至る水」であり、39節によれば‶霊“(聖霊)のことである。それは、
ペンテコステに弟子たちに送られる聖霊のことであり、そこでは、主の弟子たちに注がれ、私たちにも送られることが約束されているのである。
(1月29日説教より)