「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるよう
 になり、見える者は見えないようになる。」

ヨハネによる福音書 9:39



応援教師 山本 清   
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2023年6月
  ヨハネ福音書9章の全体は、私たちの心の目、信仰の目がどのようにして開かれるのかということが記されている。

 主イエスが、生まれつき目の見えない人を見かけられると、弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯し

たからですか」と尋ねた。これは、<この世に不幸があるのは、なぜか>という、大きな問いである。この問いに対する旧約時代の伝統

的な考え方は、<人間の不幸は、人間の罪に対する罰である>ということだった。

 ところが主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われ、

地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われ、その通りにすると、
目が見え

るようになった。

 ところが、ファリサイ派の人々の中には、「土をこねる」のは安息日に禁じられている労働に当たるという理由で、主イエスを信じよう

としない人がいて、意見が分かれた。

 そんな中で、人々は盲人であった人に対して、「お前はあの人をどう思うか」と問う。彼は、目が見えるようになった時にも、その奇跡

に驚き、喜びつつも、すぐに主イエスを探そうとはしなかったが、人々から尋ねられるうちに、この出来事が主イエスによって起こされた

ことを自覚できるようになり、「あの人は預言者です」と答えるようになり、更には、主イエスを、罪ある人間だとする人々に対しても、

自分が確かに「あの方」によって目が見えるようになったことを証言し、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにな

らなかったはずです」(33節)とまで証言するようになった。

 
こうして、盲人であった人は、肉体の目が開かれただけでなく、信仰の目がはっきりと開かれ、堂々と主イエスに対して信仰を告白する

に至ったのである。だが、ファリサイ派の人たちは、彼を外に追い出してしまう。

 その後、主イエスが、もう一度、彼の前に来られて、「あなたは人の子を信じるか」(35節)と問われ、彼は「主よ、信じます」と言

って主の前にひざまずく(38節)。すると主イエスは上記のように語られた。これは大変厳しいお言葉である。神は、主イエスを信じない

で救われる道を用意されなかった。しかし、彼は目が開かれたという、恵みの原点に立ち続けた。私たちにも、主の十字架と復活という恵

みの原点が与えられている。

                                          (5月21、28日、6月4、11日 主日礼拝説教より)  







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