「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」「わたしは自分の羊を知っており、羊も私
を知っている。‥‥わたしは羊のために命を捨てる。」
ヨハネによる福音書10:11、14—15
応援教師 山本 清
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2023年7月
ヨハネ福音書10章1~18節において、主イエスは<羊飼いと羊の譬え>を用いて、主イエスと信徒の関係を語っておられる。その
背景にあるのは、敵対するファリサイ派の人々の存在である。
まず、1〜6節では、羊の囲いに入るのに、門を通らない者は盗人(強盗)であり、羊飼いは門から入り、羊の名を呼んで、自分の
羊を連れ出し、羊の方も、羊飼いの声を知っていて、他の者にはついて行かない、と語られる。ここで「門」とは、マタイ福音書に
ある「狭い門」に通じていて、それは、十字架のキリストを暗示している。また、囲いの中には複数の羊飼いの羊が一緒に入っている
ので、羊飼いは自分の羊の名を呼び、羊の方もその声を聞き分けて、自分の羊飼いについて行き、強盗や他の羊飼いにはついて行かな
い、としておられる。――これは教会の指導者に対する警鐘であるが、真の羊飼いである主イエスは、羊の一人一人を知っておられ、
先頭に立って羊を連れ出してくださる、ということである。
7節以下では、主イエス自身が「羊の門」であり、「良い羊飼い」であると語られていて、私たちを「羊」と見ておられる。私たち
は、曲りなりにも自立して生きているつもりである。だが、主イエスは、マタイ9:36にあるように、私たちを「飼い主のいない羊」の
ように、弱り果て、打ちひしがれていると見ておられる。それは、私たちが神様から離れて、自分の好き勝手な所へ迷い出ている状態
にあるからである。ここで、盗人とか強盗に譬えられているのは、直接的には当時のイスラエルの民を指導する立場にあったファリサイ派
の人たちのことで、彼らは律法を行なうことによって救われる道を人々に教えたが、それは、門から入らないで羊たちを奪い取る盗人や
強盗のように、羊たちを滅ぼしてしまうことになるからである。だから、私たちには、父なる神から遣わされて、門から入って来る本当
の「良い羊飼い」が必要であって、御自分がその羊飼いであるとおっしゃっているのである。
更に11節以下では、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われる。単に羊のために労を惜しまないとか、羊と一緒に戦うという
のではなく、羊に代わって、十字架への道を歩まれるのである。14,15節では、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知って
いる」と言われる。この「知る」とは、単に知識として知るという意味ではなくて、命を捨てるほどに「愛する」という意味なのである。
(6月18日、7月2日 主日礼拝説教より)
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