「彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ……

  出エジプト記 3 : 13 – 15 =



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月報巻頭言集
 教師  武田 晨一 
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2018年9月
  神は人間の理解を越えた不思議な出来事を通して私たちに語りかけて下さいます。不思議な理解し難い現実に直面する時にこそ、

心を開き神に問いかけて祈らなくてはなりません。モーセは「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10節)と命じ

られた時、神の召しが理解できず、不可能ととしか思えませんでした。と言うのは、モーセはエジプトの宮廷で育った、イスラエル

の人々とは何の面識もない「よそ者」です。そんな人間がイスラエルの人々の所へ行っても誰も従っては来ません。

 そこでモーセは、神に問いかけます。それが「その名は一体何か」(13節)と言う問いです。それは「あなたは誰か、どういう神か」

という意味です。その答えが 「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)です。この言葉をどう理解するか、今日まで白熱

した議論がなされて来ました。直訳しますと 「私であるところの私である」”I am who I am” となります。私たちの頭で考えて直ぐ

理解できないのが聖書の言、神の御旨です。この 「私である」 と言いうヘブル語は、有る、居る、成ると言う意味で、つまり「私は成る、

私が成るものに」となり、神が何であり、何になるかは神自身が決めると言う、神の自由意志の宣言となっています。そしてそのことが、

モーセのこれからの歩みとイスラエルの歴史とに密接に結びついてきます。

 「あなたと共にいる」(12節)と言われた神が、モーセをイスラエルの人々の所に遣わし、エジプトから脱出させる歴史の展開へと

導いて下さるのです。「その名」 神の名は、概念的に理解されるものではなく、歴史における神の行為を通して明らかにされて行き

ます。そこには全能の力と、歴史を支配される神のリアリティーがあります。

 その歴史とは、出エジプトを初めとする旧約聖書の歴史から、私たちの生きる今日までの歴史、またキリストの再臨の日までの歴史

であって、「今おられ、かつておられ、やがて来られる」(黙示1:17) 「初めであり、終りである」(黙示4:8) 神と共にある歴史です。

その歴史の歩みの中に神の名が明らかにされて行きます。巨大な力を持つエジプトの王のもとへ、よそ者としか思われない者をイスラ

エルの人々の中へと、神は私たちを遣わそうとしています。誰が見ても不可能な中へ。然し不可能と思われる事柄の中にこそ、モーセの

人生があり、私たちの人生があります。万軍の主、全能の神が昨日も、今日も、明日も共におられるからです。
















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