月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2018年2月
主イエスは、ここでも“ぶどう園”のたとえ話を通して、深く私たちの信仰の在り方を教えてくださいます。ある人に二人の
息子がいて、その人は、長男の方にまず行き、「今日、ぶどう園に行って、働きなさい」と命じます。けれども、兄はどこか虫の
居所でも悪かったのか、それとも、何か自分の用事があったのか、「いやです」と反抗的に答えたのですが、後で『考え直して』
ぶどう園に出かけたのです。ここで、用いられている、『考え直す』という言葉は、同時に、『悔い改める』という意味も持って
います。ですから、長男は父にあっさりと、「いやです」と答えましたが、「やはり、これはよくないことだ、父の言いつけには
従わなければ」と後悔し、行動を変えたのです。一方、弟にも、父は同じように命じたのですが、彼は、快く、「お父さん、承知
しました」とは言ったものの、結局、父との約束を守らず、ぶどう園には行かなかったのです。主イエスは、祭司長や長老たちに、
「この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか」と問われます。この答えは、あまりにも、明瞭です。彼らが答えたように、
もちろん、「兄の方」なのです。この主イエスのたとえ話の意味は二重にも三重にも、意味が重ねられています。一つは、神様から
選ばれているイスラエル民族が『弟』に、そして、イスラエルのようには、神に選ばれなかった異邦人が、『兄』に譬えられている
のです。イスラエル民族は、神様から選ばれた恵みの民であったのに、神の命令に従わず、神様から離れていったが、神様の恵から
は当初、漏れていた異邦人が、神様の命令に従わなかったのに、後になって、悔い改めて、神様の命令に従ったという出来事を示して
います。これは、恐るべき『逆転』であり、私たち異邦人に対する神の驚くべき憐みの業であります。二つ目には、この主イエスの
時代に、イスラエルの代表的な宗教指導者であった、祭司長や民の長老たちは、主イエスの言動(御国の宣教)に腹を立て、反感を
募らせて、主イエスのみ言葉に従わなかった(むしろ、殺意を抱くに至ったこと)ことを示しています。そして、彼らとは逆に、
徴税人(徴税に際して多い目に民より徴税し、それを自分の収入としていた…私腹を肥やしていたゆえに、イスラエルの民に、憎まれ
ていた)や娼婦たち(彼らは、淫行によって、得てはならない利益をむさぼっていた)は、自らの罪が身に染みていたがゆえに、
ヨハネが、悔い改めの洗礼を求めた時に、進んで洗礼を受け、罪を告白したのです。ですから、主イエスは、「徴税人や娼婦たちの
方が、あなた方(イスラエルの宗教指導者たち)より先に神の国に入る」と約束されたのです。これもまた恐るべき、そして信じが
たい「逆転」であります。三つ目には、キリスト以降の時代もまた、この譬えがそのまま、生きているのです。キリストを信じる者の
中にも二層化が起きているのではないでしょうか。「行きます」と答えて、行かない者、逆に、「行きません」と答えたのち、『考え
直して(悔い改めて)』行った者の二種類です。私たちは後者に入るでしょうか。いや、後者に入らなければなりません。私たちは
許されて洗礼を受け、聖霊を与えられても、繰り返し罪を犯すのです。私たちは、その度に、憐みの主に赦しを祈り求めなければなり
ません。『自分は罪とは関係ない』と思っていてはならないのです。もし、そのように思っているなら、その人は、兄弟姉妹を心から
『愛する』ことはできないでしょう。≪赦されることの少ない者は、愛することも少ない≫のです(ルカ7・47)。
「“二人の息子”のたとえ」 マタイによる福音書 21章28~32節