喜びと思いなさい≫というのでしょうか。それは、次の3~4節にありますように、≪信仰が試されることで、忍耐が生じると、
あなた方は知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で、申し分なく、何一つ欠けたところのない人になり
ます。≫と言われているからであります。先ほど申し上げた、さまざまの『試練』は、私ども信仰者にとりましては、結局すべて
『信仰の試練』になるのです。また、そのように受け取らなければ、根本的には、何一つ解決されないからです。例えば、「老いの
問題」を取り上げてみましょう。「老い」は人生で決して避けられない問題です。「老い」は人生で「長寿」を与えられ、祝福され
た者のみが与えられる、『試練』であります。ある意味で、これは大変矛盾した悩みであり、また、ぜいたくな悩みと言えるでしょう。
しかし、これは、その人にとっては極めて深刻な悩みなのです。現代の世界が目指しています「長寿」や、「長い健康寿命」が、
矛盾に満ちていることが分かります。最初の「不老長寿」でありますが、本当に世界の人々が「不老長寿」になり、究極的に、地上
で「永遠の生命」が得られるようになると(現代はその入り口に来ています)、いずれ地球は人であふれるようになり、食糧問題や
水の問題、空気の問題などが次々と発生し、地球に人が住めなくなります。地球の資源・物質・エネルギーが有限であるからです。
結局、地球上は健康な「長寿老人」ばかりとなり、「赤ちゃん」は必要がなくなります。恐ろしい時代となります。ですから、この
地球上に住むことをあきらめて、他の惑星に移住することを今、真剣に考えている人が出てきています。勿論、他の惑星に移住する
にも100年、1000年という長期間の宇宙旅行をしなければなりませんから、決して容易なことではなく、生命をかけた事業となります。
宇宙の果てにまで行ったとしても結局同じことになります。つまり、このように考えてくると、人間は一見、『永遠の生命』を求め
てはいますが、いずれもいつかは破綻することが目に見えています。秦の始皇帝は不老長寿を求めて、水銀にその霊力があると思い、
水銀中毒で50歳で死んだともいわれています。ですから、私たちが、本当に求めているのは、「地球上の生命を永遠化することでは
ない」ということが、明らかです。私たちが求めているのは、適切な有限の人生を充実して送り、最終的には『本当の永遠の命』を
得て、『神様と共に、生き続けること』なのです。このことは、信仰抜きでは考えられないことなのです。「創造者たる神様の存在
抜きに、いくら被造物である人間が物事を考えてもいずれは破綻する」ということになるのです。
創世記2章7節には、私たち被造物である人間の命は、神様が与えてくださり、また神様がいわばコントロールしておられることを
示しています。大切なことは、私たちまたは、私たちの兄弟が、死の間際に至っても、神様に≪祈る≫ことだけはできるし、勧めら
れているということです。どのように祈るのか。それは、「あなたの御約束通りに、この僕を、あなたの国に招き、入れてください。」
という祈りであります。そのことは、主イエス御自ら、私たちに保証してくださっていることなのです。「あなたは、今日、私と一緒
に楽園にいる」と(ルカ福音書23:42)。私たちが招かれている、「神の国」がどのようなものであるのかは、黙示録22章1節以下から
知ることができます。そこでは、≪天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、
都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の
民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。
彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼ら
は世々限りなく統治するからである。≫