「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導いたそのすべての
道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめ、あなたを試み、あなたの
心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。」
イスラエル民族の歴史は、あの紅海が真二つに割れてエジプトを脱出したことに始まります。それから実に40年もの、水も食料も
無い荒野の生活が続きます。この申命記は、40年の放浪の旅が終わり、神の約束された豊かな土地に入ろうとしている、その境目で
語られたモーセの説教です。聖書の宗教は、このように砂漠の中を激しく生き抜いて来た民の中から生まれたもので、そこで語られ
る平安は、無事で、安全で、互いに争わないと言うことではなく、むしろ激しく回り続ける駒が、静かに立っているような、そのよ
うな平安を説いています。このテキストを読んでいて非常に印象的なことは、神が「あなたを苦しめた」という、苦難と苦悩を示す
動詞が二度も繰り返されていることです。二節を直訳しますと「あなたを苦しめ、あなたを試み、……心のうちにあることを知るため」
となり、それを受けて三節で「それであなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたにマナを食べさせた」となります。40年に亘る荒野
の放浪の生活が、決して神の恵み豊かな導きとしては描かれていません。聖書は、人の一生を旅人になぞらえています。この世がアダ
ム以来の罪人の住む世界である限り、そこで生きて行くのもまた荒野の旅であります。お互いが究極的には自分のことしか考えられず、
自尊心を捨て切れずに傷つき、絶望し、怒り、そして傲慢になっている世界です。そこには生存競争があり、出世レースがあり、人間
関係での屈辱と挫折があります。然し、今、モーセは、そうした荒野の旅の現実を極めて率直に、冷静にそれを神の試練、神の訓練の
時として回顧しています。しかし神は、試練と同時に救いをも備えて下さいました。詩編106:23に、「主は彼らを滅ぼすと言われたが/
主に選ばれたモーセは/破れを担って御前に立ち/……主の怒りをなだめた。」と記しています。モーセは、滅ぼすと言われる神の前に
立ちはだかり、身を賭してイスラエルのために執り成し祈ったのです。
人生の晩年において考えなければならない大切なことは、この自分の過ごして来た歩みを自分勝手に評価して、傲慢になったり、
諦めて虚無の空しさの中に放り投げたりしないことです。どんなに辛いことも、それは神の試練、訓練として与えられたもので、神に
立ち返る者を、主イエスが十字架上に身を裂いて執り成し、真の生命へと導いて下さるのです。