「喜びなさい」とありますが、私たちが喜ぶ時とはどんな時でしょうか。それは、我が家に新しい生命が誕生した時、目指す大学に
合格した時、病気が快復して健康になった時、昇進の辞令を受け取った時、秘かに恋する人から、愛の応答があった時、そう言った
時ではないでしょうか。要するに、あらゆる意味で願いが叶い、精神的、肉体的、物質的に自分の願望が満たされる時であります。
一方、当然のことながら、これと逆のことが起こりますと、私たちは悲しく辛い思いに打ちのめされてしまいます。病気や災難に
あった時、また、愛し合い信じ合うべき筈の親・兄弟姉妹・わが子・夫・妻・親しき友との間に亀裂が生じた時、私たちは混乱して、暗く
やり切れない気持ちになり、生きる勇気さえ失ってしまいます。この様に私たちは、嬉しいことに出会うと喜び、不幸な出来事に出会
うと悲しみます。
しかし、聖書には「いつも喜びなさい」と記されています。腸(はらわた)が煮えくり返るような怒りと憎しみが燃え盛っている時に、
また深い悲しみの中で暗い重い耐え切れない気持ちに押し潰されそうになっている時にどうして喜べるのでしょうか。
ここで、私たちは冷静になって、一つのことに気が付かなくてはなりません。それは、喜ぶ時も悲しむ時も、自分との関りでしか
物事を考えていないことです。多くの場合、自分の喜び、自分の悲しみであって、往々にして喜びは思い上りに、悲しみは卑屈さと
屈辱になってしまいます。こうした時、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
聖書をよく注意して見ますと、「いつも」と言う言葉の前に「主にあって」と記されています。つまり、「主にあって」ということを条件
として、絶望の中でもなお喜ぶことが出来ると言うのです。では「主にあって」とはどういうことでしょうか。これは直訳しますと
「主の中に立って」となります。つまり自分の生きているこの存在、生き方、その全てが主の中にある、主に属し、主に従い、主によって
生きていると言うことです。ですから「主にあって」と言うことは、喜びも悲しみも、ただ自分との関りだけで考えるのでなく、それらが
神と繋がっていることを知ることです。だからこそ、苦しみの中で神に「耐え抜く力を与えてください」と祈ることが出来ます。その時に、
この苦しみが十字架上の主の苦しみに与るものであることを知るのです。私の苦しみの全てを負って甦られたイエス・キリストが、私と
共に居て下さる恵みと、尽きることのない喜びを発見し、体験するのであります。この十字架と復活のキリストを信じて主と共に歩む
ところに、私たちは、どのような時も、いつも大きな喜びに溢れるのであります。