“タラントン”というギリシャ語は、元来は重さを表す単位ですが、ここでは1タラントンは、6000ドラクメに当たり、1ドラクメ
は、1デナリオン(当時の労働者の1日の賃金、1万円位?)に相当します。つまり1タラントンとは労働者の約6000日分(約20年)の
通貨(6000万円位)となるでしょう。莫大なお金です。ですから2タラントンとは、1億2000万円位、5タラントなら3億円位になります。
この譬え話では、「ある人」とは、「神様ご自身」を表していますし、「僕」とは、神様のもとに生きている「私たち自身」を指して
いることは明らかです。まず、ここで明らかなように、「神様は信じられないほどの度量の広い方」であり、神様はご自分の財産を、
本当に気前良く、その僕達に、特に何も条件を付けずに、お預けになるのです。この主人が、僕に預けた大金は、何らかの「賜物」
を表しています。ですから私たち信仰者は、神様から、「神様の財産」を、預かっているのだという『自覚』が必要だということです。
そして、私達は、むしろタラントンを、「神様の財産」つまり『信仰である』と受け取って良いのです。主人は旅立って、もうここ
にはおられない(主イエスは十字架の後、天に上られた)。けれども、必ずいつかお帰りになる。そして、預かった財産ですから、
『私のものではない』という自覚も大切です。信仰は、神様からの預かりものですから、①いつかは、返さなければなりませんし、
②大切にしなくてはなりませんし、主人が期待しておられるように、③その財産を増やさなければならないのです。どの程度増やせ
るかは、各人に任されていますが、何らかの増やす努力をし、そして実際に増やさなければならないのです。
また、更に大切なことは、人によって、主人から与えられる賜物(信仰)は、大きさが違いますが、そのことを『主人は一切問題に
していない』という事です。ここにも、『主人の驚くほどの寛容さ』を見ることができます。賜物の大きさの違いを、主人からもしも
問題にされたら、私達は、委縮してしまって生きてはいけません。ここでも、『私の荷は軽いからである』と仰った、主イエスの愛が
よく判るのです。
そして神様は、どのような人にも、その信仰に応じて、『主のみ業』を宣べ伝える時と場所を与えて下さっているのです。そして
さらに、人間だけが信仰を伝えているのではありません。小さな鳥も、小さな虫も、小さな草花も、小さな細胞も、そして宇宙も
「信仰(神様の素晴らしさ)」を私たちに伝えているのです。
けれども、主人の帰宅は予定より遅くなるのです。そうです、主人による清算(決算・世の終わり・終末)は、私達が思っている
よりも「遅くなる」というのです。けれども、遅くなっても必ず、「帰って来て、清算をする」と主人は言っておられるのです。
そして20節以下では「清算の様」が描かれています。ここは今迄から言われているように、5タラントン儲けた僕も、2タラントン
儲けた僕も、全く同じ言葉で主人に誉められています。同じ言葉で祝福されています(マタイ20・14-15)。ここでも、“神様の
驚くほどの寛大さ”が判ります。私達は、神様から与えられた賜物によって、神様に仕えているのです。
しかし、1タラントンを主人から預かった僕は、「主人が恐ろしい方であることを知っていたので、1タラントンの賜物を地面に
隠しておいた」と白状するのです。その結果、主人は、大変厳しく、その僕を叱責されます。しかも、「私が蒔かない所から刈り
取り、散らさない所からかき集める残酷な主人だというという事を知っていたのか」と迄言われる厳しさであります。
ですから、私どもキリスト信者にとって、大切なことは、『預かっている賜物(信仰)は、私達の力の限りを尽くして活用しな
ければならない』ということです。私達は、「与えられた分だけ頑張ればよい」と、思っているのではないでしょうか。私達が限界
まで努力した結果、主がそのことを「良し」としてくださるのです。私どもの新会堂が主の賜物として私たちに贈られたら、次に
なすべきことは何でしょうか。それは、「近隣への伝道」であり、「私達の子弟への伝道」です。そして、「伝道所から教会へと
繋いでいくこと」です。勿論、この業には10年以上の年月がかかりましょう。道のりは遠いのです。私達は、「今、できることは
何でもしようという努力」をしているでしょうか。また、祈っているでしょうか。私達は、限界まで努力して、神様と出会うのです。
この聖書の個所は、同時に「終末を私達は今、迎えている。終わりの時が、近づいているという、信仰を持ちなさいと神様から
勧められている」という事です。29節で言われていることは、信仰が小さいからとか、少ししか与えられていないからと思って努力
しないでいると、持っている信仰までも失ってしまうということです。私達の信仰も小さく、泉北伝道所も小さな教会であり、
日本キリスト教会もまた小さな教派であり、更に日本におけるキリスト者の数も、真に少数者であります。けれども、私達の小さな
信仰に神様は、豊かに目を注いでくださっているのです。