本日の聖書の個所から、直ちに分かることは、二人の息子は、私たち人間を表し、父親と言うのは、神様ご自身を表していると
いうことです。この弟息子は、これほど急ぐ必要もないのに、早く財産分与をしてほしいと父親に要求します。自分で好きなように
生きたい、だれからも拘束されたくない、自分には「自由」がある、というのです。そして、父親もまた、驚くほど寛容でありま
して、まるで、息子の言うがままに、財産を生前分与してやります。当時は、もちろん、生前分与などは、許されていない社会で
あったのに、父親はそれを許します。案の定、弟息子は、自分の財産を受け取るや否や、外国に旅立ち、そこで、贅沢三昧を尽くし、
財産を無駄使いしてしまいます。財産のあるときは、ちやほや寄って来た友人も、財産がなくなれば手のひら返しで、潮が引くよう
にいなくなり、しかも、この地方の飢饉と相まって、弟息子は食べるものにも窮し始めます。彼は、かろうじて、ユダヤ人が最も
軽蔑していた「豚を飼うという仕事」に付き、命をつながざるを得なかったのです。ここで言う、「イナゴマメ」とは、主に豚の
飼料にするものですが、貧しい人たちも食べていました。ぜいたくな暮らしに慣れていた彼は、貧しい人たちと同じ生活を続ける
ことは耐えられなかったのです。そのような悲惨な暮らしを始めてやっと、彼は「自分が間違っていた」と正気に返ったのです。
そして、「自分はここで飢え死にしそうだ。だから、父の家に戻って、父に心から謝り、息子としてではなく、父の家の雇人の一人
にしてもらおう」と思ったのです。彼は、「やっとまともな判断ができる」ようになったのです。彼は、初めて自己の罪に気付いた
のです。これは、正にアダムとエバの堕罪物語を彷彿とさせるものです。アダムは、蛇に騙されたのもありますが、エデンの楽園の
主人である「神様の戒め」より、「自分の自由」を優先させたのです。この弟息子もまさにそうであります。『自分には、父の
財産をもらう権利があり、しかも、それを自由に使う権利もある』と。父は、自分が死ねば、自然に自分の財産を息子たちに譲った
でしょう。けれども、弟息子のように、働きもせず、気ままにお金を使っていけば、いつかは無一文になり、生きていけなくなること
も、また明らかなことです。彼は、「死にそうになって初めて」自分の危機に気づいたのです。
ここでは、外国に行き、行方知れずになっている息子のことを、いかに父親が、普段から、心に
います。ですから、遠くに息子を見た時に、「あれは、いなくなった息子だ」と、すぐに分かり、今までのこだわりをすべて水に流し
て、首を抱き、接吻して息子を赦し、家に招き入れたのです。息子は、その時、父親に対して、生涯初めての『赦し』を乞います。
息子は、初めて「父親に対して、悔い改めた」のです。父親は、息子に対して、『分かった、赦そう』と言うよりも前に、『急いで
いちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て
屠りなさい。食べて祝おう。』と言ったのです。父親の、『愚か』とまで言えるくらいの寛大さであります。「指輪」と言うのは、
「権威の象徴」であり、「履物」をはかせるということは、「彼が、この家の奴隷ではなく、父親の大切な息子であるということの
しるし」です。父親は、失踪していた弟息子に対して、最大限の歓待を示します。なぜか。それは、『死んでいた息子が生き返り』、
『いなくなっていたのに見つかったから』です。息子は、いうまでもなく、父なる神の前で、『すべての人間そのもの』を示しています。
私達が罪に堕ちるということは、私達が神様の前から失われ、一匹の羊のように、また1枚の銀貨のように、行方知れずになることを
意味します。それは、同時に、『人間の死』と言うものを意味します。創世記にあるように、人は、神様がご自分の命の息を、鼻に
吹き込まれて、初めて生きるものになったと言われているように(創世記2:7)。人は、神様から離れて生きることはできないことを
示しています。それなのに、愚かな弟息子は、父親のもとを離れてこそ、自由に生きることができると思ったのです。けれども、今彼は
やっとその誤りに気が付き、そのことを父親に告白しました。父親は、何よりもそのことを喜び、『この息子は、死んでいたのに生き
返り、居なくなっていたのに、見つかったのだ』と言います。この一連の出来事(息子の罪の告白、罪の悔い改め、そして父の赦しと、
喜びの祝宴)は、私たちに、『罪の悔い改め、罪の赦しの求め(洗礼)、そして命の復活、神の国での祝宴』を示しています。
兄息子は、正に弟息子と真逆の行動をとります。しかも自分として、自分の行動や感情が正しいと信じて、父親に反抗し、“たてつく”
のです。人間的に言えば、兄の気持ちはもっともであり、非難されるべきものではありません。「子山羊一匹すらくれなかったでは
ありませんか」と言う兄の悲痛な抗議には、心打たれるものがあります。兄は、心の中では、泣き叫んでいるのではないでしょうか。
兄の抗議には、『痛切な響き』があります。けれども、このような兄の叫びにも似た抗議とは裏腹に、父親は、それをなだめ、『子よ、
お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』と理と情を説きます。それは、まず、『子よ』と言う呼び
かけから始まります。『お前は、私の子なのだ』、しかも、『お前はいつも私と一緒にいる。』この父親こそ、≪インマヌエルの神≫
なのであります。『私が、お前と一緒にいる限り、何も心配することや、不満に思うことはない』、なぜなら、『私のものは、全部
お前のものだ。いずれ、すべての財産を相続する時が来る』と反抗する兄に向って、言います。父は『時が来るまで待ちなさい』と、
兄を諭しているのです。また、「ブドウ園の労働者の譬え」のところで、夕方の5時になってやっと労働者として雇われた者に対する、
まともに朝から働いた者の不満・不服に対して、ブドウ園の主人が、『友よ、私はあなたに不当なことはしていない。あなたは私と
1デナリオンの契約をしたではないか。私は、この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを、自分の
したいようにしてはいけないか。それとも、私の気前良さを妬むのか。』と言ったように(マタイ20:1~)、正に兄息子は、父親の
気前の良さ、寛大さを『妬んで』いるのです。父親は、そして神は、罪人である私たちに対して、考えられないほどに寛大であり、
気前良いのです。これこそが、≪神の愛≫であり、≪神の憐み≫なのです。普通の神経や常識の人には、とうてい理解しがたいこと
です。私たちにも理解しがたいこと、信じがたいことです。けれども、神様は、この私の意思を≪理解せよ≫、そして≪信ぜよ≫と
“命じて”おられるのです。そして、神様は、どちらの息子に対しても、愛と慈しみを豊かに注いでおられるのです。