その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は
人間は、自分の知恵と力によって衣食住を満たすだけでは生きていけません。被造物に過ぎない人間が、全ての命の営みを人間の
知恵に頼ろうとしているところに、近代文明の一つの限界があります。今、私たちに本当に必要なのは合理的な知識や技術でなく、
それらを越えた霊的な潤いと生命力です。神の霊が降った聖霊降臨の出来事は、キリストの復活から数えて50日目に起こりました。
しかし、それは突然起こったのではなく、それに先立つ紀元前5世紀に、預言者ヨエルによって既に預言されていました。その預言の
語られたのは、イスラエルの民がバビロンの捕囚から解放され、神殿が再建された後です。
ユダとエルサレムに恐るべき事態が起こります。それは前代未聞のイナゴの襲来です。太陽が光を失い、空が真っ黒になる程の
大群が押し寄せて来て、地上の全ての食物を食い尽くし、人々は荒廃と貧困に喘ぎました。その時、神はこれが神の御手の業である
ことを預言者ヨエルに示し、この現象が最後の審判への警告で、悔改めて主の日に備えるべきことを告げました。それを聞いたユダと
エルサレムの祭司が、神に立ち帰り、神に憐れみを乞う祈りを捧げました。その答えが、この、主の日の前に起こる聖霊降臨の預言
でした。
「その後」とは、民が神に立ち帰った後、直ぐのことです。悔改めて神に立ち帰り、礼拝を捧げる全ての者に「霊を注ぐ」と言い
ます。神の霊は神の力、「無から有を呼び出」し、命を与える創造の力です。幼子が母の腕で安らぎを覚えるのは、理屈ではなく親の
愛情から湧き出る霊性、スピリットによります。その時、幼子は心に安らぎを得ます。それは自分の知恵や能力に関係なく、自分を
越えたところから注がれる、生きる勇気と希望、そして満ち溢れる喜びです。同じように、神の霊は朽ちて死んで行く人間に、精神的
にも肉体的にも弱く、何の拠り所もない人間に注がれます。しかも、悔改める人すべてに、何の区別もなく……。神の霊は、悔改めて
神に立ち帰る者に、朽ちることのない未来、即ち、夢と幻を与えてくれます。