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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2017年9月

 13節にある「イエスは、これを聞くと、」と言われている「これ」とは何のことでしょうか。それは、この前の14章1節以降の

「洗礼者ヨハネが、ヘロデ王によって殺された出来事」です。人々に悔い改めを迫り、神の国の到来を告げた、旧約最後の預言者

であるヨハネが、牢獄に幽閉された後、ヨハネに恨みを抱いている反対者によって、首をはねられたことに、主イエスは、神様の

なさろうとしている事(ご自分もまた、人の罪の故に、十字架に掛るという出来事)が近づいている事を悟られたのです。それ故に、

主イエスは、父なる御神に、深く祈るために、「ひとり人里離れた所に退かれた」のです。主イエスにとっても、私たちにとっても、

大切なのは、自分の部屋の中で、隠れた場所で、《自己を注ぎだして》、ひとり一人、神様に向かって祈ることです。《個人個人

が、自分をさらけ出して、神様にどのように向かっているかということ》
です。

 「しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った」のであります。この何気ない聖書の表現の中に、私達は、

人間という存在の、“危うさ”また“哀れさ”を見るのです。多くの人々は、主イエスが、本当はどこへ行かれるのか分からない

のに、彼の後を追うのです。正に「飼う者のいない羊」のようです。幼い赤ん坊が、母親の顔が見えなくなった途端、火が着いた

ように泣きだすのと似ています。幼い者は、母親が、自分の目に見える範囲にいてくれれば、もうそれだけで安心できるのです。

主イエスの周りの人々も、同じでありまして、とにかく主イエスのおられる所、主イエスの目に見える所に、ただ居たいのです。

ですから主イエスは、祈りの時間も取ることができないけれども、少しも腹を立てずに、「イエスは、舟から上がり、大勢の群衆を

見て深く憐れみ、その中の病人を癒された。」のです。ここにも、私達は父なる神の、私たちに対する“愛と憐れみと忍耐”を深く

感じることができるのです。大勢の、自分を絶えず追って来る人達を見ても、主イエスは、決して不愉快にはなられなかった。

むしろ『憐れまれた』のです。私は、これと正に反対の光景に出合ったことがあります。ある教会で、礼拝が終わった後、一人の

信者が、私に色々な質問をしてくるのです。私は、これも牧会の一つと思い、一つ一つに丁寧に答えておりました。すると、その

教会の役員の一人が、いかにも、「会堂を早く閉じたい。その人を帰らせて欲しい」という雰囲気となってきました。やむを得ず、

私は、15分位でまたの日を約束してその人に帰って戴きましたが、その時、感じたことは、「ああ、この教会は、いずれ廃れる」と

いう事でした。この人は、牧師が替わった時に、いつも礼拝に出て来ていろんな質問をするのですが、後が続かない人だったのです。

この教会の役員の人の気持ちも、勿論よく判るのですが、それでも、《いつかは、神様がその人に出会って下さることを信じて》、

教会は辛抱強く、そのような人に対応しなければならないのです。そうでなければ、私達は“キリストの敵対者”を作ってしまうこと

になります。

クリスチャンが、この異教社会に常に伝えるべき最も大事なことは、《神は愛である、神は憐れみに富む方である》という事です。

どのような人にも、神様は門を開いていて下さるということを、私達も、実際の行動で示さなければならないのです。この事を忘れて、

如何に立派な「会堂」を作っても、立派な「伝道組織」を作っても、意味はありません。

 また、15節で、弟子達が、主イエスに向かって、訴えている事も、「全くもっともなこと」です。ただ、主イエスの、そのことに

対する御答えは、弟子たちにとって全く予想外のことでした。

ここでも、幾つかの大切なことが“暗示”されています。そのひとつは、まず、『人々にとって必要なものは、主イエスの弟子達が

用意する
ことができ、またその弟子達が用意したものを、主イエスが祝福して人々に与えられ、それが人々の大切な日曜の糧、命の糧

になる』ということです。しかし、それでも弟子達は、『自分達にはとても、人々の必要を満たすための食べ物を準備できるだけの

能力はない』と思っているのです。もちろん、この弟子達の思いは、ある意味で全く当然のことです。たった5個のパンと2匹の魚で、

5000人以上の人の空腹を満たせるはずがない。けれども、主イエスは、『私がそのことを可能にするから、あなた方は、それを信じて

行動しなさい』と言われているのです。ですからこのような弟子達に対して、主イエスは、『あなた方が、彼らに食べるものを与えなさ

い。だから、そのわずかなパンと魚を、私のもとに持って来なさい。』
と命じられます。そして、弟子達が、主イエスの命じられたとお

りにすると、驚くべきことですが、必要なことすべてが実現されたのです。主イエスが、ここで、お命じになり、弟子達がそれを聞いて

従ったことは、2000年後の今でも、日本という異教の地においても、形を変えて、神様が実現なさっておられるのです。

 19節は、明らかに、「主の最後の晩餐の出来事(私達の礼拝における聖餐の式)」を暗示しています。

 本日の説教題は、《持てるものを、み業のために差し出す》と致しました。正確には、《持てる僅かなものを、み業のために

差し出す》
とすべきでした。弟子達が主イエスに、言ったように、私達は、「わたし達にはパン五つと魚二匹しかありません。」

言ってはならないのです。
それは、“不信仰”なことだからです。パン5個と二匹の魚で十分なのです。神様は必要ならば、それを何倍

にでも、何百倍にでもして、下さいます。そのことが、本日の聖書の個所の中心的な使信です。私たち日本のクリスチャンが《持てる

僅かなものを、み業のために、惜しまず、差し出す》
ならば、日本の教会は完全に変わるのです。

多くのクリスチャンは、自分には「時間がない、能力もない、富もない」と思っています。実際、そうでしょうか。本当に持っていな

いのでしょうか。決して、そうではありません。「パン5個と魚2匹」は持っているのです。《ただそれを出さないのです》

『信仰』とは、私達が《持てる僅かなものを、み業のために、惜しまず差し出す》ことです。

《あなた方の中で、知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなく咎め立てしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば

与えられます。(ヤコブ1:5)》





















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   「持てるものを、み業のために差し出す」  マタイによる福音書 14章13-21節