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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2017年1月
 この聖書の個所には、「キリスト教的生活の規範」と言う小見出しが付けられていますが、「規範」(模範とか、基準)と

堅苦しく考えずに、「賜物(恵み)としてのキリスト者の生活」とはどのようなものであるかという視点から、お話をしたいと

思います。9節では、「愛には偽りがあってはならない」と説かれています。パウロは、世の中で「愛」というものがどれほど、

「偽善」に傾きやすいものであるかということを、よく知っています。人間的な基準で「愛というもの」を考えると、それは

ほとんど成り立たないものでしょう。人間の感情や意思の奥底には、必ず「利己的な思い」が隠されています。「教会のため」

と言いながら、「自分のため」となっていないか、吟味が必要でしょう。私達は、主イエス・キリストによって「愛」を教え

られたのです。「愛」とは、「キリストに倣うこと」に尽きるのです。「相手に対して誠実に自己を捧げ、しかも相手に癒着し

ないこと」これが「愛」でしょう(NTD・ローマ人への手紙)。

10節前半では、「兄弟愛」が述べられています。私達は、「兄弟愛をもって、互いに愛し合いなさい」と勧められています。

「兄弟愛」はいわゆる「博愛」とは異なります。「広く、平等に人を愛する」というのが、「博愛」でしょうが、私達の言う

「兄弟愛」は“イエス・キリストを通して”の兄弟愛であり、“神の子としての兄弟愛”なのです。「博愛」には、「理念」

はありますが「根拠」がない。私達の兄弟愛はイエス・キリスト(神)から出ているのです。日本人だけでなく、世界全体で、

主イエスの時代までに、このような意味での「兄弟愛」は存在したことがありません。ですから、私達は、ユダヤ人であれ、

異邦人であれ、主人であれ、奴隷であれ、目上であれ、目下であれ、皆、互いに、等しく「兄弟愛」を持つことができるし、

持たなければならないのです。「兄弟愛」は日本人には、恐らく当初(明治初期)、理解できない、全く異質な「愛」であり

ました。現在、私達は「それほど貴重な、すばらしい愛」の中にいるのです。

 10節後半では、「尊敬を持って、互いに相手を、優れた者と思いなさい」と勧められています。人は、単に「互いに愛する」

だけではなく、「互いに尊敬しなさい」と命じられているのです。この言葉も、通常の倫理をはるかに超えた要求です。

キリスト信徒どうしの兄弟愛は、「目上であれ、目下であれ、皆、互いに、等しく「兄弟愛」を持つことができるし、持たな

ければならない」のですが、だからと言って、「礼儀」を無視したものであってはならない、と言っているのです。「相手に

対する、『尊敬』という根本的な精神を失ってはならない」と言っているのです。これは、当然と言えばそれまでですが、

私達は見失い易いものです。日本人の間では、年上の者に対しては勿論ですが、年下の者に対してもぞんざいなものの言い方

をしないという「美しい習慣」があります。特に教会では、牧師や長老・執事・委員の人には、自分が年長者であっても、

丁寧な言い方をすることが、信頼関係を長く持続するためには、大切でしょう。「互いに相手を優れた者と思いなさい」と

言われていますが、事実、私達の伝道所でも、委員を始め多くの方々がそれぞれに、「神様からの優れた賜物」を与えられて、

素晴らしい奉仕をなさっているからこそ、伝道が今、進んでいるのです。心から感謝する者であります。















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      「兄弟愛」   ローマの信徒への手紙 12章9節~10節