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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2017年7月
  本日の聖書の個所は、マタイ福音書12:22~32のいわゆる“ベルゼブル論争”を更に敷衍する目的で語られた「譬え話」です。

同時に、主イエスのこのお言葉は、主イエスの「予言」の言葉であり、イスラエル民族の信仰の中心である「エルサレム神殿の崩壊」

と、「ユダヤ民族の放浪(ディアスポラ)」を予言しています。イエス・キリストは、「これほど執拗に、私に反対するユダヤ民族は

間もなく滅びる」と『予言』しておられるのです。勿論、もしそれだけの事ならば、聖書の言葉の今日的な意味はなくなってしまいま

すが、そうではありません。主イエスは今もなお、私達が生きている『混乱と不安に満ちている現代』に向かって、『生ける御言葉』

を語りかけておられるのです。

まず、43の「汚れた霊」とは、22節以降のベルゼブル論争で言われている、「悪霊」(悪魔・サタン)と同じでありましょう。つまり、

「悪霊(汚れた霊)は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。」と主イエスは言われていますが、

同時に27節の後半で、主イエスが、「あなた達(ファリサイ派の人達)の仲間は、(悪霊を)何の力で追い出すのか」と言われているよ

うに、ファリサイ派も、主イエスと同じ様に、「悪霊」を追い出していたのです。つまり、「悪霊」は、自分から自発的に、出て行

ったのではなく、「追い出された」のです。しかも、この「悪霊」は、その人から追い出されるだけで、「決して滅ぼされるわけでは

なく、(毒麦のように)終わりの時まで私達と共存している」のです。すなわち、この世は、「悪霊の満ち満ちている世界」なのです。

それは例えば、猛威をふるったあの「IS国」が今ようやく、壊滅させられようとしていて、一時的にはあの地域からは消滅するかもし

れないが、世界の各地で広がり、また手を変えて、品を変えて、存続して行きます。それほど「人間の悪」は、消滅しにくいものなの

です。

また、例えば、私達の近辺でも、「自分が死刑になっても良い、理由もなく、ただ人殺しをしたい」という連続殺人鬼のような人が、

マスコミをにぎわすことがあります。不可解で恐ろしい、このような事件を見ていますと、人間の中には、太古から続く何か「暗い

執念」というか、「怨念」のようなものが残っているのではないかと思わざるを得ません。それこそ「罪の典型」です。ヨブ記1:7に

あるように、「悪霊(サタン)」は「どこにでもいる者」なのです。

 また、「悪霊」は、43節にあるように、「追い出されて砂漠をうろつき、住む場所を探すのですが、見つからない」つまり、悪霊は

人間の中に住んで、また人間のすぐそばにいて、人間に悪いことをしなければ、悪霊の「存在意義」がないのです。結局、砂漠の中で

長くは住んではいられない、つまり『出てきた家に戻ろう』とします。しかも、「出てきた家」は、もう悪霊が住んでいなくて、「きれ

いに掃除がしてある」ので、最初の悪霊は、喜んでしまって、自分より悪い7つの悪霊を連れてきて一緒に住み着くのです。「7つ」と

言うのは、「多くの」という意味です。ここで、「家」とは、多くの場合、マタイ福音書では、「イスラエル民族」自身を指し示して

います。また、同時に、「人の心」は、中立(真空状態)ではありえないので、「良い者が住んでいるか、悪い者が住んでいるかどちらか」

だというのです。「良い者(イエス・キリスト)が住んでいなければ、悪い者が住みつく」のです。折角「悪い者(悪霊)」が追い出され

ても、もし、私達の中心に「主イエス・キリスト」がお住みになっていなければ、「却ってその状態は前より悪くなる」とは、

イスラエルの場合は、メシアである主イエスの言葉を聞き、その業をはっきりと自分たちの目で見、耳で聞いたにもかかわらず、

「悔い改めて、主イエスを、自己の主とすることがなかった」ことを示しています。ですから、その結果、「前の状態よりも悪くなる」

という、イスラエルの運命を主イエスは、予知し、預言しておられるのです。つまり、主イエスが十字架に掛り復活されても、悔い

改めて、主イエスを信じなかったイスラエルは、神様に捨てられて『放浪の民族』(国・領土を失い、世界に離散する民となる)と

なるのです。それは、紀元70年と135年の2回にわたるユダヤ人の暴動で、ローマ帝国に反抗し、徹底的にエルサレム神殿を破壊され、

何十万と言うユダヤ人が虐殺され、エルサレムに入ることさえ、死刑の対象とされるという悲惨な事件のことです。そして、第二次

世界大戦の後の1948年に国連決議によって、現在の地にイスラエルの建国が認められるまでの約1900年間は、彼らは一つの地域に住む

ことができず、世界各地にばらばらに住んでいたのです。これは、勿論神様の裁きを示してはいますが、神様は、完全にイスラエルを

放棄されたのではなく、彼らはいわば罰として放浪しながらも、独特の才能を与えられ、生き延びて来たのです。そこに、私達は、

『神様の憐れみ』を見ることができます。

  勿論、この歴史的な凄惨な出来事について、聖書はただ預言しているだけではなく、この主イエスの言葉は、同時に現在の私達に

向かって語られているのです。イスラエルに向かって語られた主イエスの言葉は、そのまま、私たち「教会員」にも当てはまるのです。

主イエスを目の前に見ても、「自己の罪を悔い改めない者」は、神の国からは遠いのです。皆様は、マタイ福音書4:17で、主イエスが

宣教を始められた時のことを、思い起こして戴きたいのです。その時、主は、《悔い改めよ。天の国は近づいた。》と言われたのです。

まず自分の罪を悔い改めないといけないのです。残念なことではありますが、クリスチャンであっても『悔い改め』を軽んじている人

がいます。また、そのような教会があります。それでは、『悔い改め』とは、改めて、何なのでしょう。それは『罪の悔い改め』なの

です。では、『罪』とは何なのでしょう。罪とは一言で言うなら、『神様への反逆(遠くに押しやること)』であり、『自然への反逆』

であり、同時に、『人と人との反逆』を生み出していくものなのです。これ等のことが旧約聖書の創世記の「アダムとエバの楽園追放」、

「カインとアベルの出来事」、「ノアの箱舟の出来事」、また「バベルの塔」の出来事」に、はっきりと示されています。そして、『罪を悔い

る信仰』がなければ、「人は、人には優しくなれない」のです。結局「上から目線」となります。大切なのは、パウロが言ったように、

『主イエス・キリストを心の中心に迎え入れ』、『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く』信仰であります。また、『兄弟愛を持って

互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を優れた者と思う信仰』です(ロマ書12:10,15)。これこそ、“人間の罪の結果である戦争、戦争

という声と天変地異が溢れている”『混乱と不安に満ちている、今の時代を生きる知恵』なのではないでしょうか。





















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    混乱と不安に満ちている今の時代に、生きる知恵」  マタイによる福音書 12章43~45