まず、43の「汚れた霊」とは、22節以降のベルゼブル論争で言われている、「悪霊」(悪魔・サタン)と同じでありましょう。つまり、
「悪霊(汚れた霊)は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。」と主イエスは言われていますが、
同時に27節の後半で、主イエスが、「あなた達(ファリサイ派の人達)の仲間は、(悪霊を)何の力で追い出すのか」と言われているよ
うに、ファリサイ派も、主イエスと同じ様に、「悪霊」を追い出していたのです。つまり、「悪霊」は、自分から自発的に、出て行
ったのではなく、「追い出された」のです。しかも、この「悪霊」は、その人から追い出されるだけで、「決して滅ぼされるわけでは
なく、(毒麦のように)終わりの時まで私達と共存している」のです。すなわち、この世は、「悪霊の満ち満ちている世界」なのです。
それは例えば、猛威をふるったあの「IS国」が今ようやく、壊滅させられようとしていて、一時的にはあの地域からは消滅するかもし
れないが、世界の各地で広がり、また手を変えて、品を変えて、存続して行きます。それほど「人間の悪」は、消滅しにくいものなの
です。
また、例えば、私達の近辺でも、「自分が死刑になっても良い、理由もなく、ただ人殺しをしたい」という連続殺人鬼のような人が、
マスコミをにぎわすことがあります。不可解で恐ろしい、このような事件を見ていますと、人間の中には、太古から続く何か「暗い
執念」というか、「怨念」のようなものが残っているのではないかと思わざるを得ません。それこそ「罪の典型」です。ヨブ記1:7に
あるように、「悪霊(サタン)」は「どこにでもいる者」なのです。
また、「悪霊」は、43節にあるように、「追い出されて砂漠をうろつき、住む場所を探すのですが、見つからない」つまり、悪霊は
人間の中に住んで、また人間のすぐそばにいて、人間に悪いことをしなければ、悪霊の「存在意義」がないのです。結局、砂漠の中で
長くは住んではいられない、つまり『出てきた家に戻ろう』とします。しかも、「出てきた家」は、もう悪霊が住んでいなくて、「きれ
いに掃除がしてある」ので、最初の悪霊は、喜んでしまって、自分より悪い7つの悪霊を連れてきて一緒に住み着くのです。「7つ」と
言うのは、「多くの」という意味です。ここで、「家」とは、多くの場合、マタイ福音書では、「イスラエル民族」自身を指し示して
います。また、同時に、「人の心」は、中立(真空状態)ではありえないので、「良い者が住んでいるか、悪い者が住んでいるかどちらか」
だというのです。「良い者(イエス・キリスト)が住んでいなければ、悪い者が住みつく」のです。折角「悪い者(悪霊)」が追い出され
ても、もし、私達の中心に「主イエス・キリスト」がお住みになっていなければ、「却ってその状態は前より悪くなる」とは、
イスラエルの場合は、メシアである主イエスの言葉を聞き、その業をはっきりと自分たちの目で見、耳で聞いたにもかかわらず、
「悔い改めて、主イエスを、自己の主とすることがなかった」ことを示しています。ですから、その結果、「前の状態よりも悪くなる」
という、イスラエルの運命を主イエスは、予知し、預言しておられるのです。つまり、主イエスが十字架に掛り復活されても、悔い
改めて、主イエスを信じなかったイスラエルは、神様に捨てられて『放浪の民族』(国・領土を失い、世界に離散する民となる)と
なるのです。それは、紀元70年と135年の2回にわたるユダヤ人の暴動で、ローマ帝国に反抗し、徹底的にエルサレム神殿を破壊され、
何十万と言うユダヤ人が虐殺され、エルサレムに入ることさえ、死刑の対象とされるという悲惨な事件のことです。そして、第二次
世界大戦の後の1948年に国連決議によって、現在の地にイスラエルの建国が認められるまでの約1900年間は、彼らは一つの地域に住む
ことができず、世界各地にばらばらに住んでいたのです。これは、勿論神様の裁きを示してはいますが、神様は、完全にイスラエルを
放棄されたのではなく、彼らはいわば罰として放浪しながらも、独特の才能を与えられ、生き延びて来たのです。そこに、私達は、
『神様の憐れみ』を見ることができます。