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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2017年10月
 ここはとても有名な箇所です。ここからいくつもの豊かなメッセージを、私たちは聞くことができます。まず大切なことは、

ここは、ブドウ園の主人のことやそこに働く労働者のことが述べられていますが、それらのことが中心なのではありません。

ここでの中心的なメッセージは、「私たちすべての人間が、神様から神の国に招待を受けている」ということなのです。しかも、

この神の国の主人(神様)は、大変に”しつこい”人であり、一人でも労働者があぶれないよう、夜明けの時、朝の9時、12時、

夕方の5時と1日に4回も、労働者を雇う(実は、人を神の国に招待する)ため、広場を巡り歩いて、労働者に声をかけてくださる

のです。ここに、神様の愛が驚くほど豊かに示されています。5時に主人に声をかけられた労働者は、おそらく、もう諦めていて、

「今夜は何も食べるものがない。水でもすすって、寝るだけか」と嘆いていたのではないでしょうか。けれども、このように絶望の

淵にいる人間にも、神様は声をかけてくださるのです。

 労働者というものは、生産手段を持っておりませんから、ただ、農園の主人から声をかけられることだけを頼りにしているのです。

私たちのキリスト教信仰も、(動機は私たちにあっても)与えてくださるのは神様なのです。信仰はただ神の憐みによるのです。

神様は夜明けから(創造の初めから)、農園を出て私たちを天国に招こうとして、出かけられるのです。「神の国は近づいた。

悔い改めて、福音を信ぜよ」と。

 信仰の入り口にいる人は、徒(いたずら)に、考えに耽り、あれやこれやと一生懸命想像力を働かせても、あまりはかばかしい

結果は得られないのです。(失礼な言い方になりますが、”下手な考え、休むに似たり”です。・・・私自身がそうでした。)

神様のふところに、イエス・キリストの足元に来て、ひれ伏して、「どうぞこのような私に信仰を与えてください」と祈ることです。

神様の召し(招き)に応えることです。神様はまさに、今あなたに呼び掛けておられるのです。あなたがこの招きに応えるなら、

神様は驚くような恵み(信仰)を与えてくださいます。「知ってから信じる」のではなく、「信じてから知る」のです。クリスチャン

の知恵や知識は、すべてそうなのです。クリスチャンになる前の知識は、ほとんど廃棄されるべきものです。それこそが、神様の恵み

なのです。“知”が完全に行き詰まり、どうしてよいか判らなくなったとき、それが“信仰の入り口”です。

「主よ、私を憐れんでください」という祈りが、その人の口から出るとき、神様は喜んでその人を受け入れてくださるのです。

 また、”信仰”は、決して“取引き”のできないものなのです。前章27節のペトロのように、「私たちはすべてを捨てて、あなた

に従ってきました。」と先の者であることを、誇っていると、後回しにされてしまうのです。朝から1日中一生懸命働いた労働者を、

神様は後回しにして、夕方5時からたった1時間しか働かなかった“みじめな”労働者を、主人は“哀れ”に思い、この労働者に、

朝から働いた労働者と同じ賃金を、“約束通り”お与えになりました。これは、いかにも理不尽なことでありますが、ここに深い神様

の御心をうかがうことができます。

 神様の最初の救いの民とされたイスラエルを後回しにして、“この世に救いはないと思っていた”(神も仏もあるものか)異邦人

である私たちを、先に“救ってくださった”のです。なんという、神の知恵の深さと愛の豊かさでありましょうか。

















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   「天国のたとえ・・・神の無限の愛」  マタイによる福音書 20章1~16節