労働者というものは、生産手段を持っておりませんから、ただ、農園の主人から声をかけられることだけを頼りにしているのです。
私たちのキリスト教信仰も、(動機は私たちにあっても)与えてくださるのは神様なのです。信仰はただ神の憐みによるのです。
神様は夜明けから(創造の初めから)、農園を出て私たちを天国に招こうとして、出かけられるのです。「神の国は近づいた。
悔い改めて、福音を信ぜよ」と。
信仰の入り口にいる人は、徒(いたずら)に、考えに耽り、あれやこれやと一生懸命想像力を働かせても、あまりはかばかしい
結果は得られないのです。(失礼な言い方になりますが、”下手な考え、休むに似たり”です。・・・私自身がそうでした。)
神様のふところに、イエス・キリストの足元に来て、ひれ伏して、「どうぞこのような私に信仰を与えてください」と祈ることです。
神様の召し(招き)に応えることです。神様はまさに、今あなたに呼び掛けておられるのです。あなたがこの招きに応えるなら、
神様は驚くような恵み(信仰)を与えてくださいます。「知ってから信じる」のではなく、「信じてから知る」のです。クリスチャン
の知恵や知識は、すべてそうなのです。クリスチャンになる前の知識は、ほとんど廃棄されるべきものです。それこそが、神様の恵み
なのです。“知”が完全に行き詰まり、どうしてよいか判らなくなったとき、それが“信仰の入り口”です。
「主よ、私を憐れんでください」という祈りが、その人の口から出るとき、神様は喜んでその人を受け入れてくださるのです。
また、”信仰”は、決して“取引き”のできないものなのです。前章27節のペトロのように、「私たちはすべてを捨てて、あなた
に従ってきました。」と先の者であることを、誇っていると、後回しにされてしまうのです。朝から1日中一生懸命働いた労働者を、
神様は後回しにして、夕方5時からたった1時間しか働かなかった“みじめな”労働者を、主人は“哀れ”に思い、この労働者に、
朝から働いた労働者と同じ賃金を、“約束通り”お与えになりました。これは、いかにも理不尽なことでありますが、ここに深い神様
の御心をうかがうことができます。
神様の最初の救いの民とされたイスラエルを後回しにして、“この世に救いはないと思っていた”(神も仏もあるものか)異邦人
である私たちを、先に“救ってくださった”のです。なんという、神の知恵の深さと愛の豊かさでありましょうか。