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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2017年12月
 今月は、創世記の「ノアの洪水物語」からみ言葉を聞きましょう。神様は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に

思い計っているため、地上に人を作ったことを後悔し、大洪水を起こすことによって、神様の前に正しく歩んでいたノアとその

家族を除いて、すべての人間と動物を地上から抹殺しようと決断されました。ノアとその家族は神様の命じられたとおり、箱舟を

作り、その中に神様の命じられた動物と食料を招き入れました。果たして洪水が起こり、洪水は150日間、地上にとどまったのです。

それからさらに約150日がたってようやく、水が引いたのです。第7の月に、箱舟はアララト山の上に止まったといいます(4節)。

水はますます減り、第10の月には、山々の頂上が見え始めたのです(5節)。ノアは、さらに40日たってから、まずカラスを箱舟の

窓から放してみたのですが、まだ水が完全には引いていなかったため、カラスは戻ってきたのです。その次にノアは鳩を放しました

が、その結果も同じでした。さらに七日後鳩を再び放したところ、鳩はオリーブの枝を咥えて戻ってきたのです。まさに、『平和』

が戻って来たのです。さらに七日待ってノアが鳩を再度放したところ、鳩はついに戻ってこなかったのです。とうとう水が引いたの

です。ノアとノアの家族はどれほど喜んだことでしょうか。まさに1節にあるように、「神様は箱舟にいたノアとその家族とすべて

の動物とすべての家畜を、心に留めていてくださったのです。」洪水が始まって以来、実に1年と11日目になって、完全に地は乾いた

のです(14節)。ノアとその家族の忍耐は、どれほどのものであったでしょうか。

皆様方は、ここまで来て、「ある不思議なこと」に気づかれなかったでしょうか。それは、ノアとその家族は、神様からの語り掛け

に対して、『一言も、反論は、もちろんですが,同意の言葉も、さらには質問の言葉さえも発していない』ということです。それは、

結局ノアは、神様を完全に信頼していた、まさに100%信頼しきっていたということです。この後の20節でノアは、神様に感謝のしるし

として、聖書の中で初めて、「主のために祭壇を築き、そこで犠牲の儀式」を行っていますが、そこでも「一切言葉を発しておりま

せん」。驚くべきことです。これは「神様への完全な信頼の証し」です。彼は、「信仰の理想である」といわれるゆえんです。彼は、

無言で、徹底的に、神様の言葉に従ったのです。それに比べて、「私たち現代人は、いかに騒がしいこと」でしょうか。「しゃべり

すぎています」。私たちは、不従順を覆い隠そうとして、「饒舌になる」のです。もちろん「祈り」は、必要です。おそらくノアも

神様に祈ったことでしょう。私たちは、み言葉を学ぶことも必要でしょう。けれども、「従うことなし」に、如何に祈っても、いかに

聖書を読んでも、神様は受け入れてくださるでしょうか。私たちは、「神様の言葉に、黙して、感謝して、従えばいい」のです。

信仰において、余計な言葉は、「本当はいらない」のです。必要なことは、そして求められていることは、ノアが生きたように、

「神様に従い」そして「神に感謝して祭壇を築き、感謝の捧げものをすること」だけです。この祭壇を築き、捧げものをすることは、

キリストの時代以降は、まさに「礼拝」そのものであります。

 
 ここで、神様からの、ノアたちを洪水から守ってくださった、箱舟からの脱出のご命令が下されたのです(16節)。本当に、彼らは、

そして箱舟に匿われていた動物たちも、乾燥した、広い野原に出ることができ、神様に心から感謝したに違いありません。

ノアに対して、「箱舟に導いたすべての動物を一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい」と神様は

命じておられます(17節)。神様ご自身の深い喜びが、感じられるみ言葉ではないでしょうか。20節以下が本日のテキストの中心です。

「ノアは、主のために祭壇を築いた」のです。祭壇の詳細は全く書かれておりませんが、すべての清い家畜と、清い鳥を取り、『焼き

尽くす捧げ物』としたのです。清い家畜とか清い鳥というのは、イスラエルの人たちが「食べてよいものとされていたもの」という

意味です。なぜ焼き尽くすのでしょうか。それは、その捧げものを「完全に神様に捧げる、いささかも人間のために取っておかない」

という意味でしょう。そして天にいます神様のもとに、そのよい香りを届けるのです。焼き尽くす捧げものは、古代からの遊牧民族の

信仰の表現であり、聖書の中で何百回も繰り返し出てくる祭儀であります(レビ記1章)。大切なのは、21節です。「主は宥めの香り

をかいで、御心に言われた。
『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、

この度、したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も

夜も昼も、やむことはない。
と主は言われます。この洪水物語は、「神様の悲しみ」を中心に展開されているのです。この物語で

登場する「父なる神様の思い、心情」は、新約聖書の「放蕩息子」のたとえで登場する父親そのものなのです(ルカ15・13)。次男は、

自分の全財産を父親から譲り受けて、遠い国に旅立ち、そこで全財産を使い尽くし、食べる物にも窮し始めて、父親のところには豊か

に食べ物があることを思い出し、自分がいかに自己本位な(父の心から遠い)生き方をしてきたかということに、やっと気づき、父親

のもとに帰ることを決心するのです。彼はその時、息子としてではなく、せいぜい父親のところの雇人同様でよいから、家においてもら

おうと決断したのです。けれども、この憐れな息子に対して、父親は怒るどころか、かえって、息子を憐れに思い、走り寄って首を抱き、

息子の帰宅をだれよりも喜び、『喜びの祝宴』を始めたのです。この父親は、次男が出ていけば、財産を使い果たし、しかもまともに

働くこともできないことを知っていながら、息子の「希望」であるからと、息子の「自由」にしてやったのです。その結果、案の定、

零落して帰ってきたのです。このたとえ話は、聖書の『中心にある』、メッセージを、私たちに伝えているのです。アダムとエバの楽園

喪失の物語も根本は、二人に神様が与えてくださった「自由」を、誤って使ったことによるのです。これらの物語は、神様は『愛と憐み

の神』であり、私たちはこの愛と憐みに富み給う神が、創造の初めから、現在に至るまで、そして終わりの時に至るまで、父に繰り返し

反抗し、自分の生きたいように生きている(罪に満ちた)私たちを赦して喜んで、迎え入れ、支えていてくださることを示しています。

ノアの時代もそうでした。人間の思い図ることは幼い時から悪いのだ、と神様は『悲しんで』おられるのです。けれども、神様は

「この度、したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も

昼も夜も、やむことはない。」これは、私たちに「驚きと惧れと感謝の思い」を引き起こすのではないでしょうか。神様はそこまで、

「私たち被造物である人のこと」を思いやっておられるのです。もちろん、神様は、ご自分が創造された人間に対して「諦められた」

のでは、決してない。『悲しんで』はおられるが、最後まで、(終わりの時まで)私たちを導き通されます。『裁き』は必ずあります。

けれども、罪を悔い、神様のもとに帰ろうとする人間に対して、神様は豊かに『赦し』を与えてくださっています。それこそが、

聖書の伝える『福音』の奥義・中心であります。


 
ノアの箱舟物語は、『豊かな福音の物語』なのです。














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   「ノアの洪水と神の祝福    創世記 8章1~22節