泉北伝道所の礼拝の説教では私たちは今、旧約聖書創世記のいわゆる、アブラハムたちの族長物語の前に記されております、
イスラエル原初史とか前史と呼ばれております聖書の個所(創世記1章-11章)から、神様のみ言葉を聞いております。そのなか
でも、11章のバベルの塔の物語について、お話ししたいと思います。最初の1節にありますように、当時のかなりの文明に達した
古代の人たちは、「同じ言葉を使って、同じように話していた」のですから、互いに意思や感情の交流は比較的容易であったで
しょう。いうまでもなく、言語が異なりますと人間の意思疎通は非常に困難となり、そこに争いが起きます。現在の世界の言語の
数は、実に何千とありまして、言語というものがいかに煩瑣なものであるかということは、今も痛感するところであります。
2節の「シンアル」とは、チグリス・ユーフラテス河の河口にあります「バビロニア」のことでありまして、彼らはレンガを作り、
建築材料として、「天まで届く」高い塔を建て、「有名になろう」としたのです。また、遠くからでも見える塔を建て「全地に
散らされることのないようにしよう」としたのです。彼らは、「名声の獲得」(偉大なものになりたい)という強い欲求を持って
いたのです。これは、「人類の文明」といわれるものへの根源的な力でありまして、私たちはここに、人類が持っている「常に
神様に反抗する(自分たちの自由に生きよう)」という強い欲求を読み取ることができます。これは、創世記3章で見た「アダム
に芽生えた、神様への反抗の気持ち」と同じであります。また、彼らの「全地に散らされることのないように」という動機は、
人間的に見れば極めて当然なことに聞こえますが、創世記1章28節にあります、「産めよ、増えよ、地に満ちて(地に広がって)、
地を従わせよ」という神様の祝福と奨励の言葉に反しているのです。ですから、5-6節の神様の判断は当然でありましょう。
神様は、人間が神様の意思に逆らってでも自分たちの好きなように世界を作り変えていく危険性を持っていることを察知された
のであります。人間は、神様を除外して、自分たち好みの世界を作ろうとするのであります。8-9節にあります、「バベル」と
いう名は、元来は「神の門」という意味でありますから、「バラル(混乱する)」という意味と本来は無関係でしょうが、この
バベルの塔のような、建設途中で放置された高い神殿のいわれを表しているのでしょう(原因譚)。
結局、この「バベルの塔物語」は何を、私たちに伝えているのでしょうか。この物語は何か中途半端で、「人類の反抗と神様の
裁き」だけを語っているように思われます。最終的には、この物語の意味の理解は、新約聖書使徒言行録2章1節以降にある「ペンテ
コステ(聖霊降臨)」まで待たなければならなかったのです。つまり、五旬節の日にイエス・キリストの12人の弟子たちが、一つ
に集まっていると、「一同は約束された聖霊に満たされ、『霊』が語るがままに、全世界から集まっている人たちに、理解できる
ように、それぞれの国の言葉で話し出した」のです。誰もかれもが、「各人の国の言葉で、神様の偉大な業を聞き、理解できた」
のです。まさに、「バベルの塔」の出来事とは逆の出来事が起こったのです。このように、「バベルの塔」という自己目的のため
に生きようとする人々への「神様の裁きの出来事」が、聖霊の働きにより、「神様からの祝福」となり、それが、全世界の人々に
広がっていったのです。「バベルの塔」を作った人々の犯した罪が、今、ペンテコステの日に、「赦されて、祝福されている」の
です。