原始キリスト教会時代は、「財産や持ち物を売り、各々の必要に応じて、皆がそれを分け合った」と言われています(使徒2・44)。勿論、
この通りの理想的な状態ではなかったことは分かっていますが、聖霊の働きと共に、信者のこの献身・奉仕が教会を前進させていった
のです。今の世の中は、教会以外に、余りにも多くの楽しみがあります。教会は、皆さん方の、時間、財力、能力の奉仕を必要として
いるのです。その「奉仕」が教会外に対する何よりの「証し」となるのです。高齢化社会と言われますが、高齢化社会は同時に、退職後の
「時間」を有効に活用できる何よりの恵まれた年代です。「財力」もそうです。クリスチャンは、誠実に生きて来た人が多いので、一般
の人達より、「財力」にも「能力」にも、恵まれているのです。《もてるものをフルに活用して、主に仕えよう。》
「死」は私たち人間にとって「永遠の謎」であり、「永遠の敵」であります。「死」が厳然として存在する故に、人間は虚無的となり、
生きて行く意欲を失っているのです。49節では、会堂司の家から来た人が、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことは
ありません」と主に告げております。この言葉も、良く考えますと、「謙遜を装った、差し出がましさ、高慢さ」を表しています。
「主の力は、相手が生きている間だけの働くもので、死んでしまったら何の力もないのだ」という思い込みです。ですから、主は会堂司の
家にお入りになり、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。この御言葉は、会堂司や弟子達のみに語られている
み言葉なのではなくて、正に、私たちに、今語られているみ言葉なのです。「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、
永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(ヨハネ5・24、Ⅰヨハネ3・14)」のです。私達は、もうすでに、
「死から命へと移っている」のです。人々は嘲笑いますが(53節)、驚くべきことです。感謝すべきことです。主イエスは、私達の罪を負って、
十字架の上で死んでくださり、復活して天に昇り、聖霊を私達に注いでくださることによって(創世記2・7)、私たちを神様の子として、
処遇して下さっているのです。
私達は、第一の死を味わい、眠りに付きますが、終わりの時に、主に合わせられて天の国に甦るのです。私達は、聖書が語りかけている、
「生と死」の意味を、もっと深く知ろうではありませんか。