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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2017年8月
  本日の聖書の個所は、会堂司ヤイロの娘の「死」をめぐる、主イエスとそれらの人達との「対話と奇跡」の出来事であり、私達の

信仰が深くかかわっています。41節では、信仰面でも社会的な面においても、十分に尊敬されている、会堂司ヤイロが、主イエスの

もとに来て、その足元にひれ伏して、「自分の家に来て、死に瀕している12歳の自分の愛娘を、死から救って欲しい」と懇願するの

です。恐らく誇り高い人であったであろう会堂司が、“主の足元に来てひれ伏した”という様子の中に、彼の「打ち砕かれた信仰」を

見ることができます。彼の信仰に見るように、私たちにおいても、「信仰」とは、「主の前に、自己を投げ捨て、全面的に主により頼む

こと」である。「私達は果たしてそうであろうか」と自問せざるをえません。これは、主のもの、あれは私の楽しみ、ということはない

だろうか。現代は、宗教改革500周年と言われてはいますが、実際の中身は、教会の未曾有の危機の時代です。心から献身する人が

少ないからです。神学校の募集要項に、<若干名を募集>と書かれてあります。若干名ではまったく不足なのです。20名以上不足して

いるのです。

 原始キリスト教会時代は、「財産や持ち物を売り、各々の必要に応じて、皆がそれを分け合った」と言われています(使徒2・44)。勿論、

この通りの理想的な状態ではなかったことは分かっていますが、聖霊の働きと共に、信者のこの献身・奉仕が教会を前進させていった

のです。今の世の中は、教会以外に、余りにも多くの楽しみがあります。教会は、皆さん方の、時間、財力、能力の奉仕を必要として

いるのです。その「奉仕」が教会外に対する何よりの「証し」となるのです。高齢化社会と言われますが、高齢化社会は同時に、退職後の

「時間」を有効に活用できる何よりの恵まれた年代です。「財力」もそうです。クリスチャンは、誠実に生きて来た人が多いので、一般

の人達より、「財力」にも「能力」にも、恵まれているのです。《もてるものをフルに活用して、主に仕えよう。》

 「死」は私たち人間にとって「永遠の謎」であり、「永遠の敵」であります。「死」が厳然として存在する故に、人間は虚無的となり、

生きて行く意欲を失っているのです。49節では、会堂司の家から来た人が、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことは

ありません」と主に告げております。この言葉も、良く考えますと、「謙遜を装った、差し出がましさ、高慢さ」を表しています。

「主の力は、相手が生きている間だけの働くもので、死んでしまったら何の力もないのだ」という思い込みです。ですから、主は会堂司の

家にお入りになり、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。この御言葉は、会堂司や弟子達のみに語られている

み言葉なのではなくて、正に、私たちに、今語られているみ言葉なのです。「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、

永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(ヨハネ5・24、Ⅰヨハネ3・14)」のです。私達は、もうすでに、

「死から命へと移っている」のです。人々は嘲笑いますが(53節)、驚くべきことです。感謝すべきことです。主イエスは、私達の罪を負って、

十字架の上で死んでくださり、復活して天に昇り、聖霊を私達に注いでくださることによって(創世記2・7)、私たちを神様の子として、

処遇して下さっているのです。

私達は、第一の死を味わい、眠りに付きますが、終わりの時に、主に合わせられて天の国に甦るのです。私達は、聖書が語りかけている、

「生と死」の意味を、もっと深く知ろうではありませんか。























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    混乱と不安に満ちている今の時代に、生きる知恵」  ルカによる福音書 8章49~56節