けれどもシモンは、この罪の女と主イエスを快くは思っていませんでした。快く、どころか、「イエスが、世間が言っているように、
『預言者』であるなら、彼は神様のいわば遣いなのであるから、千里眼で、この女の素性がすぐに見抜けるはずだ」と思ったのです。
そのようにシモンが疑っている事を、主は素早く見抜かれて、ある金貸しとその債務者の譬えを話されたのです。「一人は500デナリ
(今で言えば500万円位)、もう一人は50デナリ(同じく50万円位)を、金貸しから借りていたが、どちらも返せなくなったので、
金貸しは二人とも無罪放免にしてやった」というのです(驚く程の金貸しの鷹揚さであります)。主は更にシモンに、「それでは、
一体どちらの男が、金貸しを多く愛するか」という言わば判り切った質問をなさったのです。この譬えをもとにして、主はシモンに
はっきりと、『この女は多くの借金(罪)を主(金貸し)に赦してもらったから、驚くほどの歓待をしてくれたのに、あなたは、
ほとんど何の歓待もしてくれなかった。』とあからさまに、不満をあらわにされたのです。ここで、言うまでもなく、金貸しとは
主なる神であり、借金をしているのは、私たち被造物である人間です。
この女性は、自己の罪の深さを知っていて、ただこの方だけが自分を救って下さるのだということを深く確信して、「惜しみない愛
(奉仕)を主に注いだ」のです。だから彼女は、『その深い罪にもかかわらず、主にその罪を赦された』のです。あるいは、彼女は、
『その大きな罪が主に赦されることを信じ得たからこそ、主に対する深い愛を示すことができた』のです。対するファリサイ派のシモン
は、『主に赦されることが少ない者であった』が故に、『主を(神様を)愛することも少なかった』のです。ここでは、『自己の実存
を賭けて、罪の赦しに生きた』罪の女と、ユダヤ教に留まったシモンが対比されています。
「シモン」と、「大きな罪が赦されて、心から献身的な愛を、神と隣人に注いでいる人達がいる」という分離が進んでいるのではない
でしょうか。また、クリスチャンとは言いながらも、神様への愛(奉仕)と隣人への愛よりも、人からの称賛を求めて、『この世の業』
を愛している人が多いのではないかと憂えます。『この世の業への愛』が、伝道の進展(救いの伝搬)を拒んでいる『最大の業』なの
です。