2017年  1月
2017年  2月
2017年  3月
2017年  4月
2017年  5月
2017年  6月2017年  7月
2017年  8月
2017年  9月2017年10月
2017年11月
2017年12月
2013-2016年
月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2017年6月
 ここで言われている「罪深い女」とは、婉曲的表現でありますが、いわゆる「娼婦」の事であると言われています。当時の裕福な

人々は、尊敬されている人々を自分の家の食卓に招き、共に食事をするという習慣があり、またその席に、言わば落ちこぼれている

人達もその貴人の食卓から落ちるもので、飢えをしのぐことが許されていたのです。それで、このファイリサイ派のシモンの招待席に、

「罪の女」も、同席していたのです。けれども、この女性は単に自己の食欲を満たすために、主イエスの食卓に来たのではありません。

彼女は自分の「どうしようもない罪」を自覚し、“この方なら”、否、“この方だけが”自分を罪から解放し、罪を赦して下さると

いうことを深く確信していたのです。ですから、自分のいわば全財産である高価な香油を惜しげもなく、主のために使い切ったのです。

しかも、普通、客人が家に入ったなら、その家の奴隷が客人の足を水で洗うのに、この女性は泣きながら“自分の涙”で、主の足を

濡らし、女性が最も大切にしている“髪の毛”で、主の足をぬぐい、また、普通なら、互いに歓迎の意味で抱擁し、接吻するのに、

この女は、自己の罪深さを自覚していましたから、ただ主の足に接吻して、しかも、通常は尊敬する人の“頭”に塗る、現代ならば

およそ100万円以上はする、高価な香油を“足”に塗ったのです。これは罪の女が、主に対してなしうる最上の、また最高の、すべて

を賭けた、他人からどのように悪く言われようとも、自分の救いはこの人にしかないということを、深く自覚していたが故の、奉仕で

ありました。

 けれどもシモンは、この罪の女と主イエスを快くは思っていませんでした。快く、どころか、「イエスが、世間が言っているように、

『預言者』であるなら、彼は神様のいわば遣いなのであるから、千里眼で、この女の素性がすぐに見抜けるはずだ」と思ったのです。

そのようにシモンが疑っている事を、主は素早く見抜かれて、ある金貸しとその債務者の譬えを話されたのです。「一人は500デナリ

(今で言えば500万円位)、もう一人は50デナリ(同じく50万円位)を、金貸しから借りていたが、どちらも返せなくなったので、

金貸しは二人とも無罪放免にしてやった」というのです(驚く程の金貸しの鷹揚さであります)。主は更にシモンに、「それでは、

一体どちらの男が、金貸しを多く愛するか」という言わば判り切った質問をなさったのです。この譬えをもとにして、主はシモンに

はっきりと、『この女は多くの借金(罪)を主(金貸し)に赦してもらったから、驚くほどの歓待をしてくれたのに、あなたは、

ほとんど何の歓待もしてくれなかった。』とあからさまに、不満をあらわにされたのです。ここで、言うまでもなく、金貸しとは

主なる神であり、借金をしているのは、私たち被造物である人間です。

 この女性は、自己の罪の深さを知っていて、ただこの方だけが自分を救って下さるのだということを深く確信して、「惜しみない愛

(奉仕)を主に注いだ」のです。だから彼女は、『その深い罪にもかかわらず、主にその罪を赦された』のです。あるいは、彼女は、

『その大きな罪が主に赦されることを信じ得たからこそ、主に対する深い愛を示すことができた』のです。対するファリサイ派のシモン

は、『主に赦されることが少ない者であった』が故に、『主を(神様を)愛することも少なかった』のです。ここでは、『自己の実存

を賭けて、罪の赦しに生きた』罪の女と、ユダヤ教に留まったシモンが対比されています。

 現代は、本当に「愛が冷えている時代」でありまして、同じクリスチャンの中にも、罪赦されることが少なく、愛することも少ない

「シモン」と、「大きな罪が赦されて、心から献身的な愛を、神と隣人に注いでいる人達がいる」という分離が進んでいるのではない

でしょうか。また、クリスチャンとは言いながらも、神様への愛(奉仕)と隣人への愛よりも、人からの称賛を求めて、『この世の業』

を愛している人が多いのではないかと憂えます。『この世の業への愛』が、伝道の進展(救いの伝搬)を拒んでいる『最大の業』なの

です。




















ホーム

泉北伝道所紹介

月報巻頭言

聖書の言葉

初めての方へ

アルバム

地図
  「罪深い女を赦したもう主」   ルカによる福音書  7章36~50節