それで、種を蒔いた主人の下僕達は主人に、「畑(この世)にはよい種(神のみ言葉)をお蒔きになったではありませんか。
どこから毒麦が入ったのでしょうか。」と問います。この問いに対して、主人は直ちに答えます、「それは、敵の仕業だ」と。
『敵』とは、良い種(神のみ言葉)を、台無しにしようとする『悪魔』の事です。それが典型的に現れている聖書の個所は、
創世記3章以下の『蛇の誘惑』の個所です。そこでは、エデンの園に神様が創造された最初の人アダムとエバを神様から離反させ
ようと、言葉巧みに近付き、遂にそれに成功します。この悪魔の業はこの前の聖日の説教で申し上げましたように、私達の周りに
絶えずいて、私たちを神様に反抗させようとねらっています。それは、御言葉という福音の『種』が、私達の中で成長することを
妨げている『罪の働き』そのものです。しかし、毒麦は、良い麦が成長するにつれて成長するものであり、神の国の成長は一面で
必ず、毒麦をも伴うものであります。
そこで、僕たちは、「では、これから直ちに毒麦を抜きに行きましょうか。」と主人に聞きますと、その答えは意外にも、
「いや良い麦の刈り入れまで、育つままにしておきなさい。」というものでした。『刈入れ時』とは、言うまでもなく、『世の
終わり』、『終末の裁きのとき』を意味しています。何故、育つままにしておくのか、それは良い麦も、毒麦も収穫のときまで、
極めて似ているから、毒麦を成長途中で抜こうとすると、良い麦まで抜いてしまうからです。ですから、「刈入れ時には、毒麦
を集め、焼いてしまい、良い麦は、集めて倉に入れよう」と主人は言います。このことは、教会の中でも、起こりますし、教会と
国家(この世)との関係でも起こります。私達の今の世の中でも、得体のしれない悪が氾濫していますが、私達はこの悪を直接
滅ぼそうと思ってはならないのです。神様が悪をも最後のときまで、育つままにされているのであり、神様は終末時に全ては解決
してくださるのだから、私達は先走って人を裁いてもならず、私達の教会も、最後の時まで希望を捨てず、忍耐と喜びを持って、
歩み続けるようにと召し出されているからです。