さらに、《愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。》と言いきっている。この『神は愛である』と
いう言葉は、キリスト教の根源に存在する重要な言葉です。キリスト教において、「神」とは何かということは聖書の
色々な所で語られている。例えば、「聖なる神である」とか、「義なる神である」とか、「全能の神である」とか、
「万物の創造者である」とか「生ける神である」とか、或いは「命の神である」とか、「神は霊である」、或いは
「神は裁き主である」など、実に様々な表現があり、理解があります。それらは、皆本当です。けれども、一つだけ、
最も重要な理解・信仰を挙げるとしたら、それは、この手紙に出て来る「神は愛である」という言葉であることには、
間違いがありません。神様はその本質において、また最も根源的な意味で、「愛でありたもう」のです。先ほど申しま
した、神についての様々な表現や理解は、すべて「神は愛である」という理解から出て来るのです。
続けて、《神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって私達が生きるようになるためです。ここに、
神の愛が私達の内に示されました。》前節で言われる、「神は愛である」事の、具体的な歴史的な根拠を示しているの
です。ここでは、「神が、世にキリスト・イエスをお遣わしなり、この イエス・キリストの犠牲(身代わり)の死と
復活によって私達も永遠に生きるようになるのだ」という驚くべき事を言っているのであります。そして「この事実、
この出来事こそ神の愛なのだ」と言っているのです。空手形のような、事実の裏付けのない、単なる念仏のようなものは
愛ではない。血を流さないところに愛はないのです。主が私の罪を贖って下さった、死すべき私に代わって死んで下さった
事の中に、「神の愛」があるのです。キリスト・イエスこそ私達の「身代金」であったのです。この実例として、今も
ある宗教の過激派たちが人質に対して、「2億円なり20億円なりの身代金を払え、そうすれば、この人質の命は助けてやる」
と言っていることからも十分に想像できることです。
同時にこのことの先例が、創世記22章1~18節の「アブラハムのイサク奉献」という出来事の中に見ることができます
(予表・しるし)。アブラハム自身は、たぶん、自分のこの行為の「意味」を知らなかったでしょう。私たちもまた、
自覚していなくても神の御業を現わしているのです。
10節も、神の愛を考えるときに極めて重要なことになります。歴史は起こった順序が大切なのであります。まず神様が
私たちを愛してくださった(神様がわが子イエスをまず犠牲として捧げて下さった)、このことによって私達が救われた
のであって、決して逆ではないのです。私達は、と言うよりも誰も、神の愛の行為に全く関係していない、関係のしようも
なかった、何の寄与もしなかった、考えが及びもしなかった、ただ一方的なその恩恵・恵を受けただけであるという事です。
これは、全く私達人間が想定も想像もできない大きな恵みであることが分かります。私達は、神様の前に、ただ跪いて、
頭を垂れて、ただただ「神様、本当に有難うございます」としか言えないのです。神様の愛は、正に海のように深く、
山のように高く、また、空のように、広いことが分かります。この神の救いの業、愛の業は、文字通り、正に「空前絶後」
のものです。歴史の終わりまで、二度と再び起こることのない、決定的な出来事であります。すべての歴史は一回限りの
ものです。私達は、そのような出来事の証人なのです。正に「感謝」以外何事も言う事ができません。
そして、《イエスが神の子であることを、公に言い表す人は誰でも、神がその人のうちにとどまって下さり、その人も
神の内にとどまります。》と言われています。この節も、私達の信仰の実際面で非常に大切な、神様の御約束です。
洗礼式の中で、この告白を、することによって、その人は本当に神様の子とされ、神様がその人のうちに居続けて下さる
のです。信じられない位の大きな恵みです。このような一見、極めて簡単な、信仰告白をすることが、「神の子とされる
かどうかの分かれ道である」となっているのです。
「 神は愛 」 ヨハネの手紙一4章7節~16節