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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2016年1月
  ここではまず、「愛する者たちよ」とヨハネは私達に呼びかけている。この「愛する者たち」と訳されている言葉は

正確には、「愛されている者たちよ」という意味であり、受身形で書かれている。だから、私達は「互いに愛し合いま

しょう」と言われるのです。ヨハネは、私達に「愛の究極の根拠」がどこにあるのか“愛はどこから来るのか”という

ことを、教えてくれているのです。愛は、人間から来るのではない、人間から出るのではない、ただ神からのみ、来る

のだ、そこに私達が人を愛する根拠があるのだと言っているのです。人間は人を愛しているし、愛しうると考えている、

しかしそれはすべて真実の愛ではなく、自己愛であったり性愛であったりする。それらは、全て、表面的には愛には見え

ても、本質は似て非なるものです。愛は、ただ神の憐れみ・慈しみから来る。神が私を愛してくださっているから、

私達は神の愛の深さ、広さを知っているから、そしてその神が、「あなたも人を愛さなければならない」と要求される

から、私達は人を愛する事ができるのです。この愛は、いわゆる「兄弟愛」であり、キリスト者が互いを兄弟姉妹と

信じるが故のものなのです。更に、キリスト者相互だけではなく、キリスト者以外にも広げなければならない愛なのです。

7節の後半で言われていることは、「神を愛する」という事と「神を知る」ということは、分けることはできない、同じ

コインの両面なのだとヨハネは言っているのです。また、兄弟愛は、そのキリスト者が、神を知っている事のしるしで

あり証拠なのだということであります。

 さらに、《愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。》と言いきっている。この『神は愛である』と

いう言葉は、キリスト教の根源に存在する重要な言葉です。キリスト教において、「神」とは何かということは聖書の

色々な所で語られている。例えば、「聖なる神である」とか、「義なる神である」とか、「全能の神である」とか、

「万物の創造者である」とか「生ける神である」とか、或いは「命の神である」とか、「神は霊である」、或いは

「神は裁き主である」など、実に様々な表現があり、理解があります。それらは、皆本当です。けれども、一つだけ、

最も重要な理解・信仰を挙げるとしたら、それは、この手紙に出て来る「神は愛である」という言葉であることには、

間違いがありません。神様はその本質において、また最も根源的な意味で、「愛でありたもう」のです。先ほど申しま

した、神についての様々な表現や理解は、すべて「神は愛である」という理解から出て来るのです。

 続けて、《神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって私達が生きるようになるためです。ここに、

神の愛が私達の内に示されました。》前節で言われる、「神は愛である」事の、具体的な歴史的な根拠を示しているの

です。ここでは、「神が、世にキリスト・イエスをお遣わしなり、この イエス・キリストの犠牲(身代わり)の死と

復活によって私達も永遠に生きるようになるのだ」という驚くべき事を言っているのであります。そして「この事実、

この出来事こそ神の愛なのだ」と言っているのです。空手形のような、事実の裏付けのない、単なる念仏のようなものは

愛ではない。血を流さないところに愛はないのです。主が私の罪を贖って下さった、死すべき私に代わって死んで下さった

事の中に、「神の愛」があるのです。キリスト・イエスこそ私達の「身代金」であったのです。この実例として、今も

ある宗教の過激派たちが人質に対して、「2億円なり20億円なりの身代金を払え、そうすれば、この人質の命は助けてやる」

と言っていることからも十分に想像できることです。

 同時にこのことの先例が、創世記22章1~18節の「アブラハムのイサク奉献」という出来事の中に見ることができます

(予表・しるし)。アブラハム自身は、たぶん、自分のこの行為の「意味」を知らなかったでしょう。私たちもまた、

自覚していなくても神の御業を現わしているのです。

 10節も、神の愛を考えるときに極めて重要なことになります。歴史は起こった順序が大切なのであります。まず神様が

私たちを愛してくださった(神様がわが子イエスをまず犠牲として捧げて下さった)、このことによって私達が救われた

のであって、決して逆ではないのです。私達は、と言うよりも誰も、神の愛の行為に全く関係していない、関係のしようも

なかった、何の寄与もしなかった、考えが及びもしなかった、ただ一方的なその恩恵・恵を受けただけであるという事です。

これは、全く私達人間が想定も想像もできない大きな恵みであることが分かります。私達は、神様の前に、ただ跪いて、

頭を垂れて、ただただ「神様、本当に有難うございます」としか言えないのです。神様の愛は、正に海のように深く、

山のように高く、また、空のように、広いことが分かります。この神の救いの業、愛の業は、文字通り、正に「空前絶後」

のものです。歴史の終わりまで、二度と再び起こることのない、決定的な出来事であります。すべての歴史は一回限りの

ものです。私達は、そのような出来事の証人なのです。正に「感謝」以外何事も言う事ができません。

  13節でも、《神は、私達にご自分の霊を分けて下さった》という驚くべきことが私達に“平然と”告げられている。

それは、神様が、創世記で約束されているが失われてしまった、「神に
(かたど)って造られた」人間(神の似姿である

人間)を、復元し、本来の人間へと再創造してくださったことを意味しているのです。

そして、《イエスが神の子であることを、公に言い表す人は誰でも、神がその人のうちにとどまって下さり、その人も

神の内にとどまります。》と言われています。この節も、私達の信仰の実際面で非常に大切な、神様の御約束です。

洗礼式の中で、この告白を、することによって、その人は本当に神様の子とされ、神様がその人のうちに居続けて下さる

のです。信じられない位の大きな恵みです。このような一見、極めて簡単な、信仰告白をすることが、「神の子とされる

かどうかの分かれ道である」となっているのです。

 16節の後半ですが、『キリスト者として、兄弟愛を続ける人は、神様の内に居続けるのだ。また、神様もその人のうちに

居続けて下さるのだ。』という(相互共住)、これもまた驚くべき神様の恵みの保証であります。このことから、私達は、

地上の人間関係も大切にして、兄弟愛を続けることがどれほど大切なことかという事が分かります。










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  「 神は愛 」    ヨハネの手紙一4章7節~16節