先週の6月26日の礼拝後の3時から、近くは大阪地区の諸教会や近隣の教会また、遠くは名古屋や尾道から多くの兄弟姉妹が
出席して下さり、厳粛な中にも喜びと感謝をもって、私どもの伝道所で初めての「献堂式」を、行うことができましたことを
皆様と共に心から喜び、神様に感謝しております。
本日の聖書の個所は、神の民イスラエルの歴史上最大の王となりました、『ソロモン王』が「神殿」を無事に建設し終わっ
た時に、民の前で神様に祈ったその祈りの内容であります。この神殿建設を果たした、ソロモンの長い祈りから、長年の念願
でありました会堂建設を終えた私ども泉北伝道所が、何を聞きうるのか、また何を聞くべきなのかを、聞いて参りたいと思う
のであります。
ソロモンは、「自分達の歴史(エジプトからの脱出や、カナン侵入の経験から)のただ中に、また民のただ中に、自分達の
神は臨在される」ということを、よく知っておりましたし、また信じていました。彼は、「我々の神が、今完成した、人が
作った小さな神殿にお住まいになるような方ではない」という事をもよく知っておりました。ですから、ここで、次のように
ソロモンは祈っているのです。「神様は地上にはお住まいにならない。天も、目に見える天の上に、更に何層にも重なっていた
と考えられていた『天の天』も、すべて神様御自身が創造されたものですから、そのような所にお住まいにならない。」
神殿は、「礼拝の場所であり、祈りの場所であり、また自分達の罪が赦されるための様々な祭儀を行う場所なのである」という
ことをソロモンも民も良く知っておりました。またソロモンは信仰の非常に深い人であり、また極めて聡明な人でありましたか
ら、「人の真実な祈り」とは、『叫び』であるという事も知っていました。人間の神様に対する、心からの祈りは、『叫び』に
ならざるを得ないのです。逆に言えば、『叫び』にならないような、形式的に整った冷静な祈りは、心からの祈りではないと
言っても良いのです。勿論、公的な場では、そう言う祈りもやむを得ないとは思いますが。ムンクの『叫び』と言う絵をご存じ
だと思います。夕焼けの空に向かって一人の少女が叫んでいるのです。何を叫んでいるのかは分かりませんが、彼女は間違いなく
何かを、一生懸命『叫んでいる』のです。「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の故に叫ぶ、彼らの
叫び声を聞き、その痛みを知った」と主は言われました(出エジ3章7節以降)。これが出エジプトの始まりです。ソロモンは、
『僕(しもべ)が御前に捧げる叫びと祈りを、聞き届けて下さい』と祈っています。私達も自前の会堂が欲しいという願いは、
教会員の方がたの『叫び』に近い願いだったのではないでしょうか。だから神様はその願いを聞き届けてくださったのです。
私達は、この大きな願いを叶えられた後、更に何を神様に望むのでしょうか。「教会として認められる位の群れに成長する事
なのではないでしょうか?」けれども、この事も、単に、『そうであったらいい』とか、『できれば』という程度の願望であれば、
神様は叶えて下さらないのではないでしょうか。『叫ぶ』ような、強い願い、強い信仰をもち、粘り強く神様に願って行かなけれ
ば、叶えて下さらないのではないでしょうか。私達の信仰の強さ、執拗さが試されているのです。二人の盲人は、「主イエスに
向かって、『主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい』と叫びながらついてきた。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、
二人はますます『主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい』と叫びながらついてきた。」と新約聖書では書かれています。
この二人の盲人は、このチャンスを逃したら一生、目が見えるというチャンスは来ない、という事を知っていましたから、彼らは
叫びつつ、主イエスを追ってきたのです。カナンの女も、「『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめ
られています。』と叫んだ」のであります。主はこの二人の盲人の願いもカナンの女の願いも、聞き届けられました。ソロモンも、
主イエスより1000年ほど前に、神殿で、『叫んだ』のであります。
私達は心から叫んでいるでしょうか。私達の本当の信仰が問われているのではないでしょうか。