43節では、すべての人に『恐れ』が生じたというのである。これは、異常な出来事、人間の業を超えたことが起こっていると
認めざるを得ない状況になった時に起こる感情である。これは、41節にある、「ペトロの言葉を受け入れた人々が洗礼を受け、
その日に3000人ほどが仲間に加わり、彼らが、ペトロ達使徒の教えを聞き、また守り、相互の交わりをなし、共同の食事をし、
熱心に祈っていた」という出来事である。多くの人々は、この人達の生活の変化を見て、「神がこの人達と共にいる」と感じ
たである。インマヌエルの神(神我らと共に)を感じたのである。この不思議な業とは、キリスト・イエスが貧しい者、病の
中にいる人々になさったのと全く同じ「癒しの業」である。44節では、信者達が、今風に言えば、貧富の差を少なくするため
の、『原始共産制の生活』を送っていたことが分かる。ある意味で『キリスト教信者の理想の生き方』と言えるかもしれない。
中世の修道院生活もほぼその典型と言える。しかし、聖書は、決して修道院生活や共産制社会を推奨しているわけではない。
それらは、一つの例であり、『徴』(しるし)であるに過ぎない。それは「徴」に過ぎないから、聖書の記されている出来事
から、人が理想を描き出して、何らかの新しい生き方を作り上げても、『その中に主イエス・キリストが生きておられない
共同体や生き方』であれば、必ずそれは行き詰まるのである。その典型的なものが、今日の聖書の個所にその芽生えを見ること
ができる、共産主義社会である。ソ連の共産主義社会は、わずか70年で崩壊し、中国の共産主義も一党独裁で多くの問題を
抱え、近隣社会に多くの恐怖を与えている。凡そそれらは、民主的な社会、互いに同等の人権を認め合う社会からは程遠いの
である。勿論、共産主義社会だけが問題なのではない。歴史の終わりまで、どのような意味で理想的だとして人間が追求しよう
とも、キリストのおられない組織や制度は一時的にはいかに栄えても、必ず『瓦解する』、というのが聖書が告げる所である。
だから、『修道院』は、いくばくかの問題はあっても1000年以上、そして「教会」は2000年以上、今も、生きながらえている
のである。神様がその中におられるからである。『永遠に残るのは、神のみ言葉とその約束のみ』であると聖書は告げている
のである。
46節では、「彼らはエルサレム神殿に参り、また家ごとに集まり」とあるように、私達は、ここに既に「教会の始まり」を
見ることができる。47節では、「神を讃美していたので」とあるが、原文を読むと、「神を讃美しながら」というニュアンス
になる。また、「民衆」と訳されているが、この言葉は「民」とか「人々」と理解すればよい。だから「神様を讃美しながら、
全ての人に好意を持たれていた」ということになる。つまり、彼らは、キリスト者らしく、《喜びと真心》をもって、『人々と
交わりをもちながら』、生きていたので、人々に好感を持たれ、それを見た多くの人々が、《自分達もあのような人々の交わり、
仲間に入りたい》と願ったのである。だから「こうして主は救われる人々を、日々仲間に加え、一つにされた」という事が、よく
判るのである。これこそ、「キリスト者の理想的な生き方である」なのである。私達がキリスト者の増えることを願っている
ならば、このように《キリストにある謙遜さと優しさと思いやり》を忘れないことである。
私たちは、今このように念願の新しい会堂で、礼拝を続けることができるようになり、またそのことを神様に心から感謝して
いるが、《その準備に忙殺されて》、《真心を忘れ》、《人の心が離れて行きつつある》ことに気付いているであろうか?
大事なことは、急ぐことの中にも、《キリストにある謙遜さと優しさと思いやり》を忘れないことである。