本月は、「喜びの手紙」と言われている、フィリピ書について学びましょう。まず、2章12節では、私達が「従順」
であり、「恐れおののきつつ、自分の救いの達成に努めなさい」と勧められています。「従順」とは、何でしょうか、
「従順」とは、人間的に、人に素直に従うなどという事ではありません。この「従順」は、前の8節を受けた言葉であり
主イエスが、死に至るまで、神様の御旨に従順であられたように、私達もまた、「神様の御旨に従いなさい」と言われて
いるのです。一言で言えば「信仰によって生きなさい」という勧めであります。また、「恐れおののき」と言われていま
すが、現在の日本語で、「恐れる」ということは、「怖がる」ということでありますが、ここでは、勿論そのようなこと
を勧めているわけではありません。いわゆる「神様への畏れ(畏怖・畏敬)の思いを持ちながら、自己の救いを達成する
よう努めなさい」と言われているのです。現代の殆どの人は、「神等、何するものぞ」と思って生きています。神に対す
る畏敬の念はほとんどありません。ですから、様々なおぞましい事が起こっているのです。私達は間違いなく15節にあり
ますように、「よこしまな曲がった時代の真っただ中」にいるのです。テロ・核兵器の恐怖・地震・麻薬・不倫・近隣の
恐怖政治の独裁国家等など、挙げて行けばきりがありません、そのような中にあっても、否、そのような中にいるからこ
そ、神を「畏れつつ」、自己の救いの達成に努めなければならないのです。自己の不信仰を周りの所為(せい)にしては
ならないのです。
13節では、その理由が明確に述べられています。それは、どのような曲がったよこしまな時代の中にあっても、「私達の
内に働いておられる神様が居られる」からです。私達が主にあって希望する事自体を、神様が望ませ、また行わせておられ
るからであるというのです。私達の思いや願い自体を神様が造り出し、また、行動させておられるというのです。何という
驚くべきことでありましょうか。また、何という感謝すべきことでしょうか。けれども、このことを、私ども、泉北伝道所
の者たちは、伝道所の会堂建設とその後の思わぬ形での、新しい方々の入会という本当に嬉しい一連の出来事を見て、この
2~3年、常に感じさせられ、また思わされてきたのではないでしょうか。「神様は本当に生きて居られる(インマヌエルの
神である)、そして私達の願を本当に叶えて下さっている。私達は神様に知られている!」という事を感謝の内に、実感し
ているのではないでしょうか。同時に、「何事も不平や理屈を言わずに行う」ということの大事さを、実感しつつあるので
はないでしょうか。現代は、何事につけても、「不平や理屈を言う」のが当たり前の世界になっていますが、神の御旨を思
いつつ、「何事も不平や理屈を言わずに行う」ことが、「曲がった世にあって星のように輝く」ことになるのだと言われて
います。私達は、そのようにして、「世の光」となるのです(マタイ5:14~16)。16節の「命の言葉」とは、キリストの
福音と考えればよいでしょう。17節以降では、パウロは自分が殉教の死を遂げる可能性のある事を言っています。彼はその
ようになっても、「喜ぶ」と言っています。それは、何故でしょうか。それは、神の独り子イエス・キリストが、既に殉教
の死を遂げて、しかも復活されて、今も、私達の上にまた、私達の内におられるからです。私達がキリストに倣って生きて
来たのなら、キリストの死の様(さま)に倣ったとしても、私達も終わりの日に、キリストと同じ様(さま)に、復活する
ことを信じることができるからです(Ⅰコリント15:20~21)。
「わたしたちの内に働いておられる、神」 フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節