人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、
人々の前に現してくださいました。・・・そしてイエスは、御自分が生きている者と死ん
だ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しする
ようにと、わたしたちにお命じになりました。
(使徒言行録10:39後半~42)

 



応援教師 山本 清   
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2025年4月
  使徒言行録10章の全体は、ローマ軍の百人隊長コルネリウスが、福音に出会い、洗礼を受ける物語であるが、これは彼

一個人の救いの物語である以上に、初代教会に異邦人伝道への道が開かれる物語であり、私たちの教会においても起こる筈

の出来事である。

 
ペトロが異邦人への福音宣教のことを悩んでいた時に与えられたのは、大きな布のような入れ物の中に、清い動物も、汚

れた動物も入っているという幻であった(10:12)。それは、神は人を分け隔てなさらないということを教えるしるしでした。

主イエスも、弱い者、悪魔に苦しめられている人を癒され、異邦人や百人隊長の僕や、カナンの女の娘を癒され、罪あるサ

マリアの女を救われて、差別の壁を乗り越えさせてくださいました。ですから、私たちは、人の見かけや、行動、置かれた

環境で、伝道の対象となるかならないかを判断してはならないということであります。イザヤは、「都に住む民(礼拝をする

者)は罪を赦される(イザヤ33:20)と言い、エレミヤは「小さい者も大きい者もわたしを知る。・・・わたしは彼らの悪

を赦し、彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31:34)と言っております。人の大きさ、功績の大小、罪の多少に

よらず、罪は赦される、ということです。旧約聖書が預言し、イエス・キリストによって実現したことは、イエス・キリスト

を信じる者は罪の赦しが受けられるということです。

 
ペトロがこうしたことを話していると、聞いていた異邦人を含む一同の上に聖霊が注がれるのを見て、人びとは皆、大い

に驚きました(10:44~45)。そこでペトロは、「この人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることが出

来ますか」(48節)
と言って、その場で洗礼を受けさせたのです。  

 救いは、主イエスの十字架と復活の証人の働きがなくしては起こらないし、従って、福音の宣教がなくしては、神の国は実

現しません。私たちは、救いについて、固定観念や諦めを持ってしまいます。また、救われる人と、救われない人の間に壁を

立ててしまい勝ちです。しかし、使徒たちが語り継いだ主イエスの出来事、御業そのものには、そのような壁を崩す力があり

ます。主イエスの御業が語られるところには、聖霊が働くからです。教会では今も、主イエスの御業が語り続けられ、そこに

は、聖霊が働き、人間の立てた壁が崩され、救いが起こされて行きます。          (2025年3月23日 礼拝説教より)







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