ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネによる福音書1:29)
ヨハネによる福音書1:29-42
洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めを説いて、洗礼を授けていたが、主イエスはそのヨハネのところへ来て、洗礼を受けられた。ヨハネは初め、
思いとどまらせようとしたが、主イエスは「今は、止めないでほしい」と言われ、洗礼を受けられると、聖霊が鳩のように降り、「これはわたし
の愛する子」との声が天から聞こえた(マタイ3:13‐17)。
このことがあって後、また主イエスがヨハネのところに来られたとき、ヨハネは主イエスのことを「神の小羊」と言っている。このことでイスラ
エルの人々が思い起すのは、一つは、アブラハムが我が子イサクを捧げるように神から命じられ、刃物をとって屠ろうとした時に、天より「その子
に手を出すな」との声があり、茂みの中に小羊が用意されていて、その小羊が身代わりになったという出来事。今一つは、イスラエルの民がエジ
プトで奴隷になっていた時に、神は羊を屠って、その血を家の入口の柱と鴨居に塗るように命じられ、その後、エジプト中の初子が殺されるという
出来事が起こったが、小羊の血を塗ってあるイスラエルの家だけは過越したという出来事である。
洗礼者ヨハネは、主イエスとの出会いの翌日、自分の二人の弟子に、主のことを「神の小羊だ」と言って紹介すると、二人は主イエスに従って
行った。この段階で、ヨハネは主イエスについて詳しい説明をしたわけではない。二人も、十分に納得して、主イエスに従ったのではない。私たち
のキリストとの出会いも、そうであるかもしれない。そのような二人に対して、主イエスは「何を求めているのか」と言われた。主イエスは私たち
にも、そのように問われる。主は、私たちに何が必要であるかをご存知であるが、真に求めるべきものは何かを問われ、考えさせられ、気づかせよ
うとされるのである。
二人はそれに答えず、「どこに泊まっておられるのですか」と問う。これは、ただ主イエスの宿泊場所を尋ねた言葉だが、この「泊まる」という
言葉には、<生きる基盤をどこに据えているか>という意味を表わす言葉でもある。二人の質問に対して主イエスは、「来なさい。そうすれば分
かる」と言われた。主イエスのおられるところで一緒に留まることによって、主イエスがどのようなお方であるかが発見できるということである。
その日、二人が主イエスとどんな話をしたのかは記されていない。だが、次の日には、アンデレは兄弟ペトロを主に引き合わせている。こうして、
出会いの連鎖は始まる。このように二人はメシアと出会って、人生を大きく変えられて行ったのである。