わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(ヨハネ6:51より)
ヨハネによる福音書6:41-59
主イエスの許には色々な人がやって来た。教会にも色々な方が来る。だが、主イエスの言葉に留まり続ける人は少ない。どうすれば、
主の許に留まり続けられるのか。
かつて、ユダヤ人たちが出エジプトの旅をしていた時も、また、主イエスが地上の生活をしておられた時も、神の言葉を信頼することが
出来ず、つぶやくこと多く、素直について行くことが出来ない人が多かった。それは今の私たちの現実でもある。
そんなユダヤ人や私たちに対して、主イエスは「つぶやき合うのはやめなさい。お遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれも
わたしのもとへ来ることはできない」(43,44節)と言われた。人間のつぶやきは、いくら積み上げても、そこから神に向かう道は開けない。
神が愛を込めて引き寄せてくださるからこそ、私たちは主の許に行くことができるのである。神は、旧約聖書を通して、人々に神の言葉を聞か
せ、それによって人々を御許に引き寄せようとされただけでなく、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架と復活の御業によって、
私たちを御許に引き寄せようとされ、終わりの日に永遠の命を受けることが出来るようにされたのである。(44—47)
主は、「わたしは命のパンである」(48)と言われる。ユダヤ人は荒れ野の旅で、マンナを食べて命をつないだが、結局、死んでしまった。しかし
主は、「わたしは、天から降って来たパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51前半)と言われる。このパンには死の力を
跳ね飛ばす命がみなぎっていて、それを食べる者を生かすのである。それも、一時的にではなく、永遠の命を与えられるのである。
続いて、「.わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節後半)と言われた。主は、私たちを生かすだけでなく、
世の人々みんなを生かすために、御自身の肉を差し出してくださったのである。更に、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの
内には命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(53,54節)と言われた。
これらは、十字架上で行なわれたことであり、今も、聖餐式において行われることである。生き生きとした信仰を保つために、聖餐式にあずかること
が持つ意味は大きい。
降誕節は、ただ主イエスの誕生を喜ぶだけでなく、十字架の主を、それぞれの人生の中に迎え入れる時である。
(11月20日、12月4日の礼拝説教より)