彼は光ではなく、光について証しするために来た。その光まことの光で、世に来てす
べての人を照らすのである。(ヨハネによる福音書1:8-9)
ヨハネによる福音書1:6-18
ヨハネ1:6-18には、イエス・キリストのことだけでなく、洗礼者ヨハネのことが語られている。なぜ、どの福音書も、洗礼者ヨハネを
必ず登場させるのか。――それは、福音書が書かれた頃には、洗礼者ヨハネの弟子たちと、主イエスの弟子たちとの間に確執があったからだ
とされる。しかし、そのような、当時の特殊な事情だけなら、今は無視してもよいことになるが、四つの福音書はいずれも、ヨハネを登場さ
せている。それは、ヨハネがイエス・キリストを指し示す役割をしたことが、すべてのキリスト者のなすべきことであり、ヨハネはその先頭
に立っているからである。
ヨハネについて福音書は、「彼は証しをするために来た。光について証しするためである」(7)と記す。キリスト者の生きる目的もまた、
究極的には光である主イエスを指し示すことにある。そして、「すべての人が彼(ヨハネ)によって信じるようになるためである」(7節後半)
とあるように、私たちもまた、光であるキリストを指し示す役割を与えられているのである。
次に、標記のように、「彼は光ではなく、光について証しするために来た」(8-9)とある。ヨハネは、キリストの光を受けて輝いているが、
ヨハネ自身は決して光ではない。私たちも同様であって、証しする者が主人公になってしまうことは誤りである。私たち自身は光を失っている
者であり、暗闇の中にあって、絶えず主から光を受けないと生きて行けない者なのである。
更に15節では、「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。
わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(15)と言う。時間的にはヨハネが主イエスより半年前に
誕生した。だが、主イエスこそ、世の初めからおられた方であり、神の子である。そうでありつつ、私たちを愛するが故に、私たちのところに
降って来られ、十字架の死に至るまで私たちの為に命を尽くされたのである。
このあと23節で、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と言う。「声」とは「言葉を伝える音声」に過ぎない。だが、「声」のように
告げたいことがある。それは、<イエス・キリストこそ、命の光である>、ということであった。