彼は光ではなく、光について証しするために来た。その光まことの光で、世に来てす
べての人を照らすのである。(ヨハネによる福音書189

ヨハネによる福音書1618



応援教師 山本 清   
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2022年6月

 ヨハネ1618には、イエス・キリストのことだけでなく、洗礼者ヨハネのことが語られている。なぜ、どの福音書も、洗礼者ヨハネを

必ず登場させるのか。――それは、福音書が書かれた頃には、洗礼者ヨハネの弟子たちと、主イエスの弟子たちとの間に確執があったからだ

とされる。しかし、そのような、当時の特殊な事情だけなら、今は無視してもよいことになるが、四つの福音書はいずれも、ヨハネを登場さ

せている。それは、ヨハネがイエス・キリストを指し示す役割をしたことが、すべてのキリスト者のなすべきことであり、ヨハネはその先頭

に立っているからである。

 ヨハネについて福音書は、「彼は証しをするために来た。光について証しするためである」(7)と記す。キリスト者の生きる目的もまた、

究極的には光である主イエスを指し示すことにある。そして、「すべての人が彼(ヨハネ)によって信じるようになるためである」(
7節後半)

とあるように、私たちもまた、光であるキリストを指し示す役割を与えられているのである。

 次に、標記のように、「彼は光ではなく、光について証しするために来た」(89)とある。ヨハネは、キリストの光を受けて輝いているが、

ヨハネ自身は決して光ではない。私たちも同様であって、証しする者が主人公になってしまうことは誤りである。私たち自身は光を失っている

者であり、暗闇の中にあって、絶えず主から光を受けないと生きて行けない者なのである。

 更に15節では、「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。

わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(
15)と言う。時間的にはヨハネが主イエスより半年前に

誕生した。だが、主イエスこそ、世の初めからおられた方であり、神の子である。そうでありつつ、私たちを愛するが故に、私たちのところに

降って来られ、十字架の死に至るまで私たちの為に命を尽くされたのである。

 このあと23節で、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と言う。「声」とは「言葉を伝える音声」に過ぎない。だが、「声」のように

告げたいことがある。それは、<イエス・キリストこそ、命の光である>、ということであった。

 




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