「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4:14)
ヨハネによる福音書4:1-30
主イエスはガリラヤへの伝道を志され、ユダヤからガリラヤへ向かわれる途中、ユダヤ人が軽蔑して避けていたサマリア地方を通られて、
町はずれにあるヤコブの井戸で休まれた。その時、サマリアの女が水を汲みに来ると、主イエスは、「水を飲ませてください」(7節)と言わ
れた。女は、ユダヤ人からそのように言われることに違和感を抱いて、「どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9)と言うと、イエス
は、ご自身が「生きた水」を与える者であることを語り始められ、標記のように言われた。この女が汲みに来た水は、どれだけ飲んでも心の
渇きを癒すことは出来ない。肉体の欲望や金銭欲・名誉欲を満足させるものが、どれだけ豊富にあっても、心を満たすことは出来ない。それに
対して、「永遠の命に至る水」とは、神と向き合って生きる生き方のことである。それは、礼拝において絶えず神と向き合う生き方のことで
ある。彼女は、その意味がまだ十分に理解できないまま、「その水をください」(15節)と言った。
すると、主イエスは、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と、この女の問題点への直球を投げられ、女が、「わたしには夫はいま
せん」と言うと、主は、その女が五人の夫と別れ、今は別の男と連れ添っていることを述べられ、女がありのままを言ったことをほめられた。
すると女は、主イエスのことを「あなたは預言者だとお見受けします」(19節)と言う。これは、正確な見方とは言えないが、彼女の精一杯の
告白であった。
このあと、主イエスは、サマリアでもなく、エルサレムでもない所で、礼拝が行なわれることを告げられ(21—22節)、「霊と真理をもって
父を礼拝する時が来ることを述べられ、「今がその時である」(23節)と言われた。それに対して女は、「わたしは、キリストと呼ばれるメシア
が来られることは知っています」(25節)と言うと、主は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(26節)と宣言された。この
言葉によって、この女の中に永遠の命に至る「生きた水」が注ぎこまれたのである。
こうして、この女は、水を汲みに来たことも忘れて、町に戻って、主イエスのことを語り始めた。ここに、伝道の原型が示されている。主は、心の
中に渇きを持つ私たちに近づいて、心を開き、命の水を注いでくださり、それを人々にも分け与える小さな泉ともならせてくださるのである。
こうして、救いの御業は、私たちをも用いて働き始めるのである。