「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。
また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」(ヨハネ6:11)
―真に満たされた人生を歩むために― ヨハネによる福音書6:1-15
主イエスが、長年病気で苦しんでいた人を癒された(5:1-6)ことから、人々の期待が高まり、大勢の群衆が後を追って来た。しかし、
彼らが期待していることと、主イエスが与えようとされていることとの間にズレが生じ始めていることに気づかれて、群衆から離れて、弟子
たちと静かな時を持とうとされたと思われる。
ところが、大勢の群衆が腹の減ることも忘れて、御自身の方へ来るのをご覧になって、弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、
どこでパンを買えばよいのだろうか」と言われた。群衆が精神的に空腹になっているだけでなく、肉体的にも空腹になっていることを気づか
れたのである。しかし、フィリポにこう言われたのは、どうやって群衆の空腹を満たしたらよいか、途方に暮れて相談されたのではなく、フィ
リポを試みるためであった。だがフィリポは持ち合わせのお金や群衆の数を考えて、とても足りないと結論づけた。一方、アンデレは、群衆の
中に食糧を持っている者がどれだけいるか調べたが、「大麦のパンが五つと魚二匹を持っている少年」がいることが解ったが、「こんなに大勢
の人では、何の役にも立たない」と結論づける。こうした弟子たちの判断を受けて、主御自身が問題の解決に動き出された。
人々を座らせてから、少年が持っていたパンと魚を人々に分け与えられると、一万人以上はいたと思われる人々が皆満腹した上、拾ったパン屑
を集めると、十二の籠にいっぱいになったのである。こうして、人々も弟子たちも、主イエスが人々の必要を満たしてくださるお方であることに、
改めて気づかされた。――だが、主イエスがこの出来事によって示そうとされたことは、それだけではない。パンで腹を満たされても、人々の
人生が真に満たされたわけではない。
主イエスが人々に与えようとされているのは、単に人々の腹を満たしたり、健康を保たせるだけのことではない。4節を見ると、「過越祭が
近づいていた」とある。過越祭とは、かつてイスラエルの民がエジプトにいた時に、羊の血を塗ったユダヤ人の家だけが滅びを免れて、エジプト
から脱出出来たことを祝う祭である。主イエスはこの後、ご自分が過越の羊の役割を担って十字架に架かり、ご自分の命に代えて全人類を霊的な
空腹から救い出し、真の満腹を与えようとしておられたのである。(伝道礼拝説教より)