「 主は洪水の上に座し、主はみくらに座して、とこしえに王であらせられる。主は
その民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。」
ここで詩人は、恐るべき雷鳴の轟も、洪水による破壊も、全てが「主の御声」によって起こされると言います。この詩編には
「主の御声」と言う言葉が七回も繰り返し語られています。聖書の冒頭で、主なる神が「光あれ!」と、その御声を発した処に
「光があった」と、天地万物の創造を記しています。この世界は神の言によって造られ、神の言によって支配されています。この
世界と歴史の根底には、神の主権があります。今、起こっている全ての出来事の背後に「主の御声」が、神の主権があります。
決して人間の思惑通りに、この時代と歴史が動いているのではありません。
先進工業国の失ったものは大空であり、光であり、水であり、土であります。その原因は、その根本において人間が神になり
代わって世界を支配し得ると思う傲慢さにあります。神を畏れない思い上りです。そのような人間に、神は「そうじゃないのだ、
人間は自分の力だけでは立ち行かないのだ、そんな事をしていたら滅びてしまうのだ」と御声を発し、その愚かさを断罪されるの
です。そして神はその混沌の「大水の上に座し」て、その「大水に向かって」語りかけておられるのです。それが神の御言である
聖書です。
リースマンは「現代人の特徴は不安と言う一語で捉えられる」と言いました。いくらお金があっても、教養があっても不安は
解消しません。しかし、この命の言に聞いて生きて行くならば、どのような時にも人は本当に心から喜んで生きることができます。
そして、その言は、イエス・キリストの「十字架の言」となって、この混沌とした時代の中に、限りない祝福と安らぎをもって
臨んで下さるのです。