神の国とは、この世界の何処かにそういう場所があると言うのではありません。国という言葉は、支配・統治と言う意味です。
初めに神は、聖霊と共に働く言葉を発して「光あれ」(創世記1:2)と言われ、何も存在しない「無から有を呼び出」(ロマ4:17) し、
六日間に亘ってこの天と地・万物を創造されました。そして神は、創造のご意志が完成される終りの日までこの世界と歴史を支配さ
れます。それは人間の知識と理解を遙かに越えた事柄です。
そこで主イエスは、神の国を種蒔きの譬によって説き明かされました。種を蒔くのは一度です。これに対して寝る・起きる・芽を
出す・成長すると言う言葉は、継続的な活動を表わしています。私たちの人生は一回限りです。しかし神の支配、神の創造された
世界は 創造の意図に従って完成されて行き、神の働きは休むことなく続きます。それは人の目から見れば「ひとりでに実を結ばせ
る」(28節) ように見える人間の力の及ばない真に不思議な働きです。この人生・この世界は、恰も人間の努力と働きで展開されている
かのように思っていますが、実は、この世界は、人間の思いを遙かに越えた神の御支配のもとにあります。そしてただ、創造者なる
神の御心だけが 「実を結」(28節)びます。
茎・穂・豊かな実りと、その不思議な成長、また土の驚くべき産出力とそのエネルギーが、神の力・聖霊の働きを表わしています。
このことを知らずに私たちは、自分の力で生きていると錯覚して、傲慢と自惚れに陥り、その結果、敗北感と虚脱感に襲われています。
また 「収穫の時」(29節)とは、神の創造の御意志が完成される「最後の審判の時」、私たちキリスト者が、キリストと共に復活
の命に与る栄光の輝きに生かされる時です。ここに、地上にあるキリスト者の計り知れない大きな希望があります。私たちは「どんな
種より小さい」「からし種」に譬えられている極めて脆く・小さく・弱い存在です。しかし、この弱い肉の体で蒔かれても、神の力、
聖霊が働くなら、鳥が巣を作るほどに成長し、甦りのキリストと共に、霊の体に生かされる確かな救いの時、完成の時があります。
今、私たちはどんなに小さく・弱く・破れた存在、誰よりも惨めな存在であっても それは問題ではありません。大切なことは、神の働き
に全てを委ねて、この神の国の希望のもとに「今」を生きることです。