「 主はしえたげられる者のとりで、/ なやみの時のとりでです。
み名を知る者はあなたに寄り頼みます。/ 主よ、あなたを尋ね求め
る者を / あなたは捨てられたことがないからです」(口語訳9-10節)
そうした中で詩人は、只一点を見つめます。それは信仰をもって歴史を振り返ることでした。すると過去の歴史の中では「敵は退き…
つまずき倒れて」(3節)神の前に滅び、どんなに強く、賢く、全世界を支配するかに思われた者も、全てはこの歴史から消え去っていま
した。そこには歴史の審判、神の裁きがあり、「正しい訴え」(4節・私訳)は守られています。「訴え」とは審判と言う言葉で権利を意味します。
只一人で苦しみ、誰からも顧みられない者に、神は、法的権利と立場とを認めて、味方となって彼を助け守られます。「滅ぼし」(5節)
「消し去られ」(5節) 「記憶さえ消え失せ」(6節)るとは、神に背き、己を勝ち誇る社会が必ず滅び失せる運命に在ることを物語っています。
ではこの神の審判に対する信頼はどこから来るのでしょうか。それは、主が、この世界と歴史を「さばくために、みくらを設け」(7節)
「正義をもって」(8節)支配されることを知るところから来ます。詩人が、この世界と歴史の中に正義と公平を貫かれる神に信頼し、身を
寄せた時に、そこに、驚くべき御業が成されました。それは主が「しえたげられる者のとりで、/ なやみの時のとりで」(9節)となられた
ことです。「なやみの時」とは、自分の力では最早どうすることも出来ない絶望的な時です。しかしそのよう「なやみの時」にこそ主に
「寄り頼む」(10節)ことが大切です。この世、人間の力、自分の可能性にのみ生きる人は、主に寄り頼もうとはせず、なお、頑なになって
出口のない苦悩に喘ぎます。悩みの時を主に委ねる人こそ、主を「尋ね求め」(10節)る人です。その時、詩人は主がそのような者を「捨て
られたことがない」(10節)ことを知りました。そして、この事実を喜んで全ての人に宣べ伝えずにはおれなかったのです。主イエスは神に
捨てられ、人に捨てられても尚、その悩みの時を主に委ねました。そこに神の救いが実現しました。