イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
ヨハネによる福音書18:7〜9
主イエスは、弟子たちとの最後の晩餐のあと、弟子たちへの説教を語り、祈りを終えられると、弟子たちと共に、ケドロンの
谷の向こうにある「ゲッセマネの園」へ向かわれた。そこは、弟子たちがイエスと共に度々集まった場所であった。主イエスは
既に、イスカリオテのユダが裏切ろうとしていることを知っておられ、彼が、主を逮捕しようとしている連中を手引きするであろ
うことも予想しておられたに違いない。主イエスは、そこで逮捕されることを覚悟の上で、その危険なゲッセマネの園へと進まれ
たのである。それは、神の御心に従って、敢然と十字架に向けて歩まれたということである。
案の定、ユダは、イエスを十字架に架けようとしている人たちから派遣された兵士や下役たちを手引きして、この場所にやって
来た。彼らは、松明やともし火や武器を手にしていた。このことは、彼らの行動が明るい日射しの下では出来ない闇の行動であった
ことを象徴的に表わしている。一方、弟子のペトロは、剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司の手下に打ってかかり、その
右の耳を切り落とした。これは勇敢な行動と思えるが、力に対しては力で戦おうという発想から抜け出せていない。主は、「剣を
さやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言われる。「杯」とは、神の憤りや審きを表わす言葉であり、
主の十字架のことである。この「杯」以外に、罪の支配から人を救い出す道はないのである。
このあと、主イエスは標記のように、「だれを捜しているのか」と問われ、彼らが、「ナザレのイエスだ」と答えると、主は、
「わたしである」と言われた。そこには、「わたしこそ、永遠から永遠に向けて、ここに存在する」という強い意味が込められて
いる。
そのあと主イエスは、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言われた。「この人々」とは、弟子たちのこと
である。彼らは弟子たちをも捕らえようとしていたかもしれないが、主イエスの迫力に押されて、弟子たちにまで手を出すことが出来
なくなった。それは、6章39〜40節で言われた次の言葉が実現するとの約束である。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたし
に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」 (2月4日 主日礼拝説教より)