人々 :「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しをしなかったでしょう。」
(ヨハネ18:30)
ピラト:「お前の同胞や祭司たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。」 (ヨハネ18:35)
イエス:「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、
部下が戦ったことだろう。」 (ヨハネ18:36)
イエス:「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 (ヨハネ19:11)
ヨハネ(筆者):ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。 (ヨハネ19:16)
応援教師 山本 清
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2024年3月
ヨハネ福音書の18〜19章では、上記のように「引き渡し」と訳されている言葉が5回使われている。他の福音書では「裏切る」
とも訳されている言葉である。
「人々」というのは、祭司長やファリサイ派の人々であるが、彼らは主イエスが御自分を神の子メシアであるとしたとの理由で、
死刑の判決が可能なローマ総督ピラトに引き渡した。しかし、ピラトはそれだけの理由で自分が裁かねばならないとは思わず、上記
のように言うと、主イエスは36節で、「わたしの国」が、力をもって治めるこの世の国ではないことを明言された。主イエスの国は、
権力や軍事力や経済力で治める国ではなく、愛によって治める神の国(真理の国)なのである。
するとピラトは、「真理とは何か」(38)と言って、真理なんて何の力も持たないとうそぶきながら、結局は、「十字架につけろ」
との祭司長や下役たちの声に押されて、自分にはイエスを釈放する権限も、十字架につける権限もあることを述べる(19:10)。
これに対して主イエスは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限も、十字架につける権限もないはずだ」(19:
11)と言われ、上記のように、「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」と言われたので、ピラトは主イエスを解放しよう
と努めたが、ユダヤ人たちから「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」(12)と迫られ、遂に、主イエスを十字架
につけるために引き渡してしまう(16)。
最後に、ローマ総督ピラトが、「見よ、この男だ」(19:5)と言い、「見よ、あなたたちの王だ」(19:14)と述べたことに注目
したい。そこには、鞭で打たれ血まみれになり、頭には茨の冠を載せられ、王の印である紫の服をまとわれた主イエスの姿がある。
この十字架の主イエスこそ真の王なのである。 (2月25日、3月3日礼拝説教より)