わたしたちはこのような厳しい主イエスの言葉に接しますと、「それでは、いったい誰が救われるのであろうか」と訝らざる
を得ませんし、何故であろうかと深刻に考え込まざるを得ないのではないでしょうか。「預言」は、神様の言葉を聞き、それを
人々に伝えることですから、私たちにも十分可能なことでしょう。しかし、悪霊の追い出しや奇跡ということになると私どもには、
非常に困難なことではないでしょうか。預言をし、悪霊を追い出し、また奇跡(本当に素晴らしい良き業)を起こし得た、信仰
深い人々が、救われないのは何故でしょうか。それは、彼らの主に対する訴えの言葉の中に、ある程度その、理由が隠されている
のではないでしょうか。結局、彼らは色々な素晴らしい業をなすことができましたが、それを『自分の功績また、自分の手柄』
と意識しているふしが彼らの訴えの中に聞かれるのです。主イエスは、恐ろしいほどに、彼ら(私達)の心の中を見通しておられ
るのです。恐らく、彼らは、『彼らの隣人(となりびと)への愛』の故に、「良き業」をしたのではなく、「神様に見てもらい、
誉めてもらうために」また、「自分の栄光のために、自分が誉められるために」したのです。ですから主は、その偽善性を衝かれ
たのです。彼らは、信仰を根本的に勘違いしているのです。また、ルカ福音書17章7節以下では、「自分に命じられた事を皆果たし
たら、『私どもは取るに足らない僕です。しなければならない仕事をしただけです』と言いなさい。」と僕の主人は僕に、命じて
おります。私たちは伝道所開設以来28年経って、新会堂を建設することができました。新会堂の建設は、伝道所開設以来の念願で
あったのですが、それが様々な障害や反対で遅れていたのです。私どもは、会堂建設を喜びまた感謝するのは良いことであり、
また、外部の方々にも篤く支えられた賜物であることを感謝しておりますが、それを誇らしい気持ちになってはいけないのです。
「私達は為すべきことを、為したに過ぎません」と言うべきなのです。なぜなら、会堂建設の主体は神様であり、私たちは、その
部分・部分を遂行したに過ぎないものである事が良く判っているからです。
私達は、この主が賜った新しい会堂を用いて、次の新しい伝道の業に乗り出して行かなければなりません。それは、一人一人
の信仰の深められることであり、日曜学校(児童礼拝)の再開であり、近隣への伝道の業であります。私どもは、「この伝道所が、
本当に神様に喜ばれる、そして、神様の栄光を表す教会になりますように」と祈る者であります。