ここに出て来る、ある指導者とは、ユダヤ教の会堂司(管理者)であり、礼拝毎の聖書の引用個所を決め、説教者を手配する等、
会堂の一切を取り仕切っていた人です。当時のユダヤ人達からは相当な尊敬を払われていたのです。そのように地位も信用も高い
人が、主イエスのところに来て、いきなりひれ伏して、「私の娘が、たった今死にました。でもお出でになって、手を置いてやって
ください。そうすれば、生き返るでしょう。」とお願いをしたのです。この指導者は、愛する娘の死に動顛し、悲しみの真っただ中
にいたのでしょう、随分と大胆な、また当時のユダヤ人と主イエスとの険悪な関係を考えると、ある意味で厚かましいお願をしたの
です。つまり律法学者達は、「このイエスという男は、『あなたの罪は赦される』などと宣言する等、我々の神を冒涜している。
見過ごしにできない。」と思っていたはずです。また、主イエスが、徴税人や罪人たちと食事の席に着いているのを見て、『この男
は、律法や我々の言い伝えを無視する、けしからん男だ』と忌々しく思い、憎んでいたことが、確かだからです。
けれども、このユダヤ教の指導者は同時に、主イエスが、『信じられないような、いろいろな病気の癒しをしてくれる人だ』という
ことを、既に噂としては聞いていたはずです。ですから、今までの行きがかりを捨てて、恥をも顧みず、大胆に主イエスに、『自分
の娘の命を救って欲しい』と願ったのです。しかも、主イエスに、『手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう』
とまで言ったのです。ここに、この指導者の必死の訴えを、聞くことが出来ます。彼は、自分の恥も外聞も、すべて投げ打って、
主イエスに助けを求めたのです。『主イエスが手を置けば癒される』という、彼の信仰は不十分であるにもかかわらず、ここに彼の
真剣な信仰を見ることができます。主イエスは、実際は手を触れて病をお癒しになるのではなく、『御言葉でもって』病を癒される
のです。そのことは、これまでのマタイ福音書の多くの「癒しの記事」をよく読めばわかるはずです。「手を触れて、癒す」という
のは、御言葉の後の行為であり、いわば迷信です。本当の信仰とは、百人隊長が主イエスにお願いした言葉「ただお言葉をください。
そうすれば私の僕は癒されます。」なのです(9章5節以下)。