2016年  1月
2016年  2月
2016年  3月
2016年  4月
2016年  5月
2016年  6月2016年  7月
2016年  8月
2016年  9月2016年10月
2016年11月
2016年12月
2013-2015年
月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2016年11月
 この聖書の個所には、ある会堂司の娘に対する癒しの記事と、長血の女性に対する癒しの記事が載せられていますが、ここでは、

「ある会堂司の娘の癒しの記事」を中心に取り上げます。

ここに出て来る、ある指導者とは、ユダヤ教の会堂司(管理者)であり、礼拝毎の聖書の引用個所を決め、説教者を手配する等、

会堂の一切を取り仕切っていた人です。当時のユダヤ人達からは相当な尊敬を払われていたのです。そのように地位も信用も高い

人が、主イエスのところに来て、いきなりひれ伏して、「私の娘が、たった今死にました。でもお出でになって、手を置いてやって

ください。そうすれば、生き返るでしょう。」とお願いをしたのです。この指導者は、愛する娘の死に動顛し、悲しみの真っただ中

にいたのでしょう、随分と大胆な、また当時のユダヤ人と主イエスとの険悪な関係を考えると、ある意味で厚かましいお願をしたの

です。つまり律法学者達は、「このイエスという男は、『あなたの罪は赦される』などと宣言する等、我々の神を冒涜している。

見過ごしにできない。」と思っていたはずです。また、主イエスが、徴税人や罪人たちと食事の席に着いているのを見て、『この男

は、律法や我々の言い伝えを無視する、けしからん男だ』と忌々しく思い、憎んでいたことが、確かだからです。

けれども、このユダヤ教の指導者は同時に、主イエスが、『信じられないような、いろいろな病気の癒しをしてくれる人だ』という

ことを、既に噂としては聞いていたはずです。ですから、今までの行きがかりを捨てて、恥をも顧みず、大胆に主イエスに、『自分

の娘の命を救って欲しい』と願ったのです。しかも、主イエスに、『手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう』

とまで言ったのです。ここに、この指導者の必死の訴えを、聞くことが出来ます。彼は、自分の恥も外聞も、すべて投げ打って、

主イエスに助けを求めたのです。『主イエスが手を置けば癒される』という、彼の信仰は不十分であるにもかかわらず、ここに彼の

真剣な信仰を見ることができます。主イエスは、実際は手を触れて病をお癒しになるのではなく、『御言葉でもって』病を癒される

のです。そのことは、これまでのマタイ福音書の多くの「癒しの記事」をよく読めばわかるはずです。「手を触れて、癒す」という

のは、御言葉の後の行為であり、いわば迷信です。本当の信仰とは、百人隊長が主イエスにお願いした言葉「ただお言葉をください。

そうすれば私の僕は癒されます。」なのです(9章5節以下)。

 しかし、ここではもっと大切なことが述べられています。それは、『この指導者の信仰が不十分なものであっても、主イエスは

それを喜んで受け入れられ、その願いによって指導者の娘を甦らせ賜うた』
という事実であります。このことは、今の私達に対し

ても、全く同じであります。私達が信仰に入った初めの頃のことを思い起こせば十分です。私達の信仰は十分であったから、洗礼を

受けたのですか。全くそうではないですね。むしろそれは全く逆でした。私どもの信仰は、正に『辛子種一粒ほど』の信仰しか

なかった。けれども、神様はそのような小さな信仰、いわば「見当外れの信仰」であっても、それを受け入れて下さり、私達が

洗礼を受けることを良しとし、喜んでくださったのです。ですから、今のこの私達があるのです。主イエスが、長血を12年間も

患っていた女性に対して、「あなたの(小さな)信仰があなたを救った。」と宣言された時に、本当に長血は治っていたのです。

しかも、主イエスは、彼のその不信仰を、また彼女のその迷信を少しもお責めにならなかったのです。むしろ喜んでお受けになった

のです。それは、主イエスの時から2、000年を経た「今も」起こっている、驚くべき出来事です。私達の信仰も、この主イエスの深い

憐れみによって建っているのです。『主の豊かな憐れみ』がなければ、私達の信仰も、存在し得ないのだということがよく判るの

です。













 
ホーム

泉北伝道所紹介

月報巻頭言

聖書の言葉

初めての方へ

アルバム

地図

 「ある会堂司の信仰」  マタイによる福音書 9章18~26節