27日(日)は、イースター(復活節)であります。例年のように、単に主イエス・キリストの復活を皆で喜ぶだけではなく、
ここで私達は、「キリストの復活」の意味を、少しでも深く、かつ現実に即して考えてみたいと思います。主イエス・キリスト
が復活なさったということは私たちに何を究極的に告げているのでしょうか。勿論それは、主が十字架の上で私達の罪を負って
死んで下さり、三日目に甦られたという信仰は、私達も主イエスに倣ってその命に与る事ができるという希望を与えて下さる
ものです。けれども、そのようなことに留まっていません。「主イエス・キリストの復活」は、究極的には、「神様は私達より
はるかに強い方である」と言うことを示しています。もう少し敷衍して言いますと、「主イエス・キリストの復活は、人間が、
いかなる手段を用いても、神の子イエス・キリストを殺すことは『遂にはできなかった』」と言うことを示しているのです。
被造物たる人間が創造者たる神の子を殺す事が出来なかった、と言うことは、当然と言えば極めて当然ですが、「主イエス・
キリストの復活は、神様が、人間より圧倒的に強い方であるということを示しています」。私達、現代のクリスチャン、特に
日本のクリスチャンはこの事に、余りにも「無頓着・無関心」なのではないでしょうか。旧約聖書も、新約聖書も、このことを
私たちに明らかに示しています(出エジプト記14:15~31の紅海渡渉やヨシュア記3:1~17のヨルダン川渡渉や使徒言行録の
教会形成)。今も神様が、キリストの教会を形成されているのです。泉北伝道所のわたしたちは、正にこのことの証人でありま
す。私達キリスト信徒は、今も、神様は、教会形成と政治や経済活動を通じて、その御心を現わしておられることを深く信じな
ければなりません。現代は(正しくは、現代も)、人間の力、また人間を支配する罪の力が激しく荒れ狂っています。このこと
は、わが国の近隣諸国の軍拡と周辺国への脅迫に近い言動を見れば明らかです。けれども、私達は、「主イエス・キリストを
復活させたもうた父なる神様は、いかなる凶暴な人間達より強い方である」ことを、信じて生きなければなりません。大祭司や
祭司長たちの悪巧み、更にはファリサイ派の陰謀や主イエスの弟子であったユダの裏切り、またローマ官憲の権力も、そして
悪霊の力も、何者も主の復活を阻止することはできなかったということであります。この神は、今も生きてわたしたちの内に働
いておられる。また、目には見えないけれども、凶暴を増しつつある私達の周辺諸国の政治の中にあっても、人間達の悔い改め
のために時間を与えつつ、神様は私達の外においても働いておられるのです。
皆様も近年のこの東アジアの政治的・軍事的な動きをご覧になっても結局、クリスチャンが中心となって、平和を構築して
行かなければならない事がお分かりになるでしょう。
宗教は、宗祖が何を残したかをよく見ないとその本質が分かりません。仏教は、寺で「無」を教え、イスラームは、モスクで
「戒律と服従」を教え、キリスト教は、教会で「恵みと救い」を伝えています。ですから主イエス・キリストは、このマタイ
福音書で、二度、「恐れるな」と命じたまいます。それは、「私は死から復活して、あなた方は再び私に会えるのだから、また
真の命を与えているのだから、恐れるな」と言われているのです。この御言葉に押し出されて、私達は恐れることなく、神様の
「恵みの言葉・福音」を宣べ伝え続けるのです。