さて、今月は、十字架上で死の苦しみの中にある主イエスと二人の強盗との対話を通して、キリスト教信仰の根底にあるもの
を見てゆきたいと願います。
ここでは二人の強盗が主イエスと共に十字架に付けられています。正に苦しい死刑が執行されている真っ最中という事になり
ます。そのとき一人の強盗は、「お前はメシアではないか。それならお前自身と我々を救え」と、いわば強請る(ゆする)ので
あります。それに対してもう一方の強盗は、彼をたしなめて、「お前は神様をも畏れないのか。同じ強盗を働いたのだから、この
刑罰は当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言います。ここに、この世の人々の神様に対する、典型的な
信仰の二つのあり方を見ることができます。その一つは、信仰からは遠く、いわば神様を「自分の家来」のように扱う態度・あり方
であります。もう一方は、自分の罪を認め、しかも「この方は、何も悪いことをしていない。」と主イエスの無実性を認めます。
この後者の強盗の態度・生き方が真実なキリスト者の信仰であります。まず、彼は「①自分の罪に気付かされ、②同時に自分の
横にいて苦しんでいる神の子イエス・キリストには全く罪がない(罪がないどころか、むしろ様々な善き業を行ったが故に、妬み
を買って、当時の指導層に死刑に処せられている)ということ」を告白しているのです。そしてさらに、「③『イエスよ、あなた
の御国にお出でになるときは、わたしを思いだしてください』と言った。」とあります。この最後の言葉によって、彼は、「この
神の子イエスが、この死の苦しみ(自分自身は罪がないのに、人の罪を背負って十字架の死に向かいつつあるという事)を経て、
父なる神のもと(神の国)にお帰りになることまで知っている。」事を、内に秘めてはいますが、告白しているのです。この彼の
信仰こそ、神の子主イエスの意味を完全に知り、自己の存在の根源にある罪をも告白し、正にキリスト教信仰のすべてを言い現わ
しているのです。主イエスの弟子達は、皆隠れて逃げてしまった中で、彼こそ、最初のクリスチャンとなった人であります。彼こ
そ死の床(であり同時に、十字架の上で)信仰を得たのです。私達も、彼のように、「皆苦しみの中で、信仰を得る」のです。
その信仰こそ真実な信仰となります。また、彼は、決して「わたしを救ってください」とは言わなかった。ただ謙遜に、「わたし
を思いだしてください」とだけ言ったのです。驚くほどの謙遜な信仰です。というより、これこそ真実の信仰です。自己を全く
誇ることのない信仰です。わたしたちもまた、苦しみの中にあってもなお謙遜さを失わない、信仰を持ち続けたいものです。
ペンテコステが信仰の始まりだと、一般的には言われています。それは一般的には正しいのですが、本当の信仰の始まりは、
イエス・キリストの十字架にあるのです。それが本当の信仰なのです。アーメン。
「わたしを思い出してください」