ここでは、まず「私(主イエス)は、愛する者(キリスト者)を皆、叱ったり、鍛えたりする。」と言われています。大変厳しい
言葉です。私達は、もう何十年も立派に教会生活を続けて来たのだから、私達は誉められて当然だと、皆様方は感じておられるの
ではないでしょうか。事実、私達は、伝道所として創立以来、毎週の礼拝を一日たりとも怠ったことはありませんし、昨年は長年の
念願であった会堂も建設することができました。また、15年近く減少傾向にあった教勢も回復し、微増さえしています。これ以上
何を望むべきだというのでしょうか。恐らく多くの教会員の方々は、そのように感じておられるはずであります。小アジアの内陸に
あったラオディキアの教会もそうでした。ラオディキアの町は、アンティオコス2世が、紀元3世紀に建設した町で羊毛とその製品、
また目薬等で有名で、裕福な町でした。また温泉にも恵まれ、約30,000人を収容できる競技場の他に、水路橋等の遺跡も残されてい
るほどです。私どもの伝道所は、勿論それほど裕福ではありませんが、恵まれていることは事実です。けれども、そのような私たち
に対して、主は、「私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって
欲しい。熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。」主イエスは信仰における「慣れ」とか
「停滞」とか「怠惰」という事を仰っておられるのです。この黙示録2~3章に出て来る七つの教会に対する勧告の中で、主イエスは、
繰り返し「私はあなたの行いを、知っている」と言われています。私達の信仰は、いつも熱いものであればいいのですが、必ずしも
そうはいきません。必ず山があり谷があるのです。熱い時もあり、冷たい時があっても不思議ではないのです。主はそのことを認めて
おられますし、赦しておられます。主がむしろ憎まれるのは、「いつも生ぬるい信仰」です。それは、自己満足の信仰だからでしょう。
「まあ、この程度やっておけば良かろう」という信仰です。冷たければ、悔い改めが起こり、主は聖霊を送り、覚醒させて下さいます
し、勿論、熱ければ、伝道の色々な面で進展がありますので、感謝に溢れ、信仰から信仰に進ませて下さいます。困るのは、「いつも
中途半端である」という事です。信仰を持っているようで、持っていない、信仰を持っていないようで持っている、『生ぬるい信仰
状態が続く』と、信仰が退歩している事に一向に気付かないのです。
私達は、新会堂を建てたことで、すっかり満足しているのではないでしょうか。そのことが一番心配されることです。次の20年、
30年に向かって、伝道所を教会にまで、神様が成長させて下さる『幻』を見ているでしょうか、またそれに向かって『歩み出そう』と
しているでしょうか。教会は無理で、伝道所のままでよいのだと、満足してしまっていませんか?主は、「私は愛する者を皆、叱った
り、鍛えたりする。だから熱心に努めよ。悔い改めよ。」と仰っておられます。そして、そのすぐ後で、「見よ、私は戸口に立って、
叩いている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をするであろう」と約束して下さって
います。この戸とは、私達の心であり、同時に教会の扉でもあります。「主の愛する者への御約束」を信じて歩み続ける者でありたい
と、願うのであります。